「そこに3人いるでしょ」しかしそこには誰もいない
「ダメよ! そんなことしちゃ!」
ある夜のこと――。草木も眠る丑三つ時と言われる午前2時頃、僕は寝室に響き渡る大声で目が覚めた。
3階の僕とカミさんの部屋の間には、大きな納戸がある。この納戸は、互いの寝室から直接出入りできるようになっているのだが、中はほとんどカミさんの洋服と、ドラえもんのぬいぐるみやグッズなどの小物でパンパンなので、普段は僕が使うことはあまりない。
彼女にとっても、脳梗塞で倒れてからは、おしゃれをして出かける機会がなくなっていたので、納戸に出入りすることはほとんどなかったはずだ。だが、それなのに深夜の寝静まった頃、この納戸からペコの叫び声が聞こえてきたのだ。
「ダメって言ってるでしょ! ちゃんと言うことを聞いてちょうだい」
誰かを叱っているような声だった。
あまりの大声に、いったい何事かと驚きながら納戸の扉を開くと、そこには、たくさんの服に埋もれて立てない状態になりながら、一人でしゃべり続けるカミさんの姿があった。
慌てて、服の山から彼女を救い出す。
「ペコ、こんな時間に、どうしたんだよ?」
「だって、この子たちが……」
「この子たちって、誰としゃべってるんだい? ここには誰もいないよ」
「そこに3人いるでしょ」
「何を言ってるんだ? ペコ、誰もいないよ」
「いるわよ、よく見て! 子供が3人いるじゃない!」
その後も彼女は1時間以上、一人でずっとしゃべり続けていた。どうやら、認知症の症状の一つである幻覚が見えているようだ。まるで、学校で学生たちを教えているような口ぶりだ。
昔、専門学校で教鞭を執っていた頃の記憶を混同してしまっているのだろうか?
また、別の夜のこと――。
「さっきまで、あたし、お母さんとしゃべってたの。お母さんがね、”身体に気をつけなさいね“って言ってたわ」
「ペコ、ちょっと冷静になって……。しっかりしてくれよ」
彼女のお母さんは、僕たちが出会うよりずっと前に亡くなっているというのに……。
カミさんに現実や昔の事実関係を理解してもらうのは、もう無理なのだろうか?
理解させようと必死になればなるほど、それは“虚しさ”という形でしか返ってこないことに、僕は気づき始めていた。