「君なら僕がやろうとしていることを十分理解してくれると思う」
三島由紀夫が自衛隊の市ヶ谷駐屯地において東部方面総監室を占拠し、憲法改正のために自衛隊の決起を呼びかけた後で覚悟の自決を遂げたのは、1970年11月25日のことだった。
何事にも几帳面だった三島由紀夫が事前に立てた計画は、小説や戯曲と同様に細部まで神経が行き届いていた。
およそ1年の歳月をかけて身辺をきれいに整理し、約束していた執筆や対談などの仕事を順に片付けていったのだ。
仕事や知人たちとの約束を一つずつ果たしながら、主だった友人たちにはさりげなく会うことによって、それとなく別れを告げている。
前日の夜は、友人でアメリカにおける翻訳者であるドナルド・キーンとH・Sストークスに宛てて、最後の所感と死後の指示書を手紙で送って、すべての段取りを整えた。
君なら僕がやろうとしていることを十分理解してくれると思う。
だから何も言わない。
僕はずっと前から、文人としてではなく武人として死にたいと思っていた。
(ドナルド・キーンに当てた三島由紀夫の手紙)
「これがヤクザ映画なら…」
万事に律儀だった三島由紀夫は、原稿の締め切りを守らないことがない人だったといわれる。
遺作となった『豊饒の海』第四部の最終稿も、当日の朝に長篇の結びを書き終えていた。そして期日どおり出版社に渡るようにと、自ら担当者に電話をかけて自宅まで取りに来てほしいと伝えた。
軍刀と二振りの短刀を収めたアタッシュ・ケースなど必要な品々を携えて、楯の会の同士4人とともに車で大田区馬込の自宅を出発したのは午前10時過ぎ。それから環状七号線に出て第二京浜に入り、品川から中原街道を経て市ヶ谷の陸上自衛隊に向かった。
荏原ランプから首都高速道路に入ると、飯倉ランプで降りて赤坂・青山方面から神宮外苑に出た。
だが時間が早すぎたのですぐに降りず、そこを二周することになった。その時に三島由紀夫が車内で、こんなことを口にしたという。
「これがヤクザ映画なら、ここで義理と人情の『唐獅子牡丹』といった音楽がかかるのだが、俺たちは意外に明るいなあ」
高倉健の『唐獅子牡丹』を歌い始めた三島由紀夫に合わせて、四人の声が車内に響いていった。