高倉健はシャイな好青年だった
スクリーンで演じた役のイメージがそうだったように、孤独の影をまとう男という生き方を貫いた高倉健は、私生活をまったく垣間見せないスターとして有名だった。
しかし、訃報を聞いた美術家の横尾忠則氏は、世間的なイメージとは違って「もっとよく話す人だった。そして細かいところに気配りのできる繊細な人でした」と語っていた。
「60年代の終わりごろ、ひと目お会いしたくて、つてを頼って、東京・赤坂のホテルで待ち合わせをしました。私の姿を見るなり、直立不動。そして深々とお辞儀をして下さいました。この印象は、その後もずっと変わりませんでした」
(朝日新聞2014年11月19日朝刊「日本中が、背中で泣いています 高倉健さんを悼む 美術家・横尾忠則」より)
初めて出会って意気投合した横尾氏は高倉健の写真集を作り、主演した映画のポスターやレコードジャケットをデザインしている。
高倉健がジャズ・シンガー出身の人気歌手・江利チエミと結婚していた1960年代前半のこと。
作曲家の中村八大のお供で自宅に呼ばれて一緒にすき焼きをごちそうになった桑島滉氏(中村八大の運転手兼マネージャーだったが、1966年に渡米してロサンゼルスで音楽プロデューサーとして活躍した人物)は、家庭人として料理に腕をふるっていた高倉健の明るい笑顔が、今でも印象に残っているという。
美空ひばり主演の映画『べらんめえ芸者』シリーズ(1959)などでは、背広姿でサラリーマン役に扮した高倉健。照れ屋だが真っ直ぐな気性の明るい好青年を演じていた。
ではシャイな好青年だった高倉健は、いつから寡黙で厳しい表情のストイックな男になったのか。
1956年、東映にニューフェースとして入社した高倉健は、映画『電光空手打ち』で主演に抜擢されてデビューを飾った。
だが、それからの5年間で60本以上もの作品に出演したにも関わらず、代表作やヒット作と呼べる作品は生まれなかった。
京都撮影所で作られる時代劇が中心に回っていた東映にあって、東京撮影所で製作される現代劇は傍流にすぎない。高倉健は二枚目俳優ではあっても、まだスターとまで言えないという微妙な存在だった。
しかし、転機が訪れる。