亡命したパレスチナ人のその後つらい人生
ところで、新生イスラエルから逃亡した、あるいは追放された70万人のパレスチナ人はどうなったのだろうか?
大半はトランスヨルダン(まもなくヨルダンに改名)、トランスヨルダン支配下のヨルダン川西岸、レバノン、シリア、エジプト、エジプト支配下のガザ地区に渡った。
また、近隣のアラブ諸国やその先へと向かう者もいた。ユダヤ人の歴史の皮肉な再現であるパレスチナ人の離散民―現在では「一九四八年の難民」の子孫が500万人を超えている―は、まさにユダヤ人のディアスポラのように、世界各地に散らばっている。
そして、ユダヤ人と同様、亡命したパレスチナ人の経験はけっして楽なものではなかった。
入国したアラブ諸国のほとんどで、パレスチナ人は難民キャンプに収容され、70年以上を経た現在も、多くの難民がそこで惨めに暮らしている。
難民キャンプは、パレスチナ人の急激な流入に対応しつつ、政府の役人が恐れていた事態、つまり、パレスチナ人が引き起こしかねない混乱の潜在的リスクを避ける手段だった。
キャンプによってパレスチナ人の苦境という問題が解消されることはなく、それに対する民衆の怒りが収まることもなかった。たどり着いた国でパレスチナ人は歓迎されず、しばしば軽蔑され、差別され、(たいていの場合)市民権と(多くの場合)基本的な権利を認められなかった。
受入国はイスラエルとの、あるいは受入国同士の紛争において、パレスチナ難民を政治的なサッカーボールとして利用した。
何と言っても、アラブ諸国の独裁的な支配者が、シオニストの侵略とナクバという双子の亡霊を自国民に想起させることには利点があった。
シオニストの侵略もナクバも、往々にして抑圧されている民衆を怒らせ、次の紛争に向けて準備させておく手段として有効だったし、これらの独裁的支配者や生活水準の低さに対する民衆の憤怒や不満を、内側、つまり政権自体に向かわせるのではなく、外側、つまりイスラエルへ向かわせる手段としても役立ったのだ。
1948年12月、イスラエルとアラブ諸国の戦いが終わりを告げると、国連総会決議一九四号が採択された。1948年の戦争で生じた難民が、故郷に戻って隣人と平和に暮らしたいと望むなら、できるだけ早期にそれが許されるべきだとするものだ。
これが、パレスチナ人はグリーン・ラインの内側のイスラエルへ「帰還権」を有するという主張の根拠であり、和平プロセスにおいて最もやっかいな問題の一つでもある。
というのも、1948年の難民の生存者全員と、さらに重要なことだが、何百万人というその子孫が現在のイスラエル内にある故郷に帰ることが許されれば、それらの人数と、イスラエルとその占領地に住んでいるアラブ人の人口を合わせると、現在イスラエルで暮らしているユダヤ人の人口をはるかに上回ってしまうからだ。
そうなれば、イスラエルでユダヤ人が多数派である状態が終わってしまいかねない。要するに、「帰還権」はユダヤ人国家に終止符を打つ可能性があるのだ。
1949年、国連は難民とその子孫を保護すべく、国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)を創設した。UNRWAに登録した難民は、難民としての地位を父方の子孫へ引き継ぐことができる。
現在、UNRWAは約60カ所の難民キャンプで活動しており、これらのキャンプは、ヨルダン川西岸、ガザ地区、ヨルダン、レバノン、シリアで140万人を収容している。
文/ダニエル・ソカッチ 翻訳/鬼澤 忍 写真/shutterstock
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