大坂冬の陣

これより先の十月中旬、大坂城では軍議が行われた。真田幸村は後藤又兵衛と共に、宇治(現在の京都府宇治市)・勢多(現在の滋賀県大津市)まで進出して関東方の渡河を阻止する積極策を唱えた。

ところが豊臣家の首脳部は籠城策を主張し、鉄壁の巨城に拠って戦うことに決した。

ただし、大坂城には防禦上の弱点があった。城の西は大坂湾、北は天満川、東は深田が控えているが、城の南側は空堀を備えているのみで手薄だった。

そこで幸村は籠城戦に備えて、大坂城惣構(外堀)の南東隅の外側に出丸(砦)を築いた。奈良方面から北上してくるであろう関東方の大軍を、幸村はこの出城で迎え討とうと考えたのである。これが有名な「真田丸」である。

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十一月十五日、徳川家康は京都二条城(現在の京都市中京区)を発し、大坂に向かった。十八日には天王寺の茶臼山に登り、秀忠の出迎えを受けた(『駿府記』)。その頃には東軍諸大名の布陣も整い、総勢二十万余の大軍が大坂城を包囲した。

翌十九日には木津川口・伝法川口で戦端が開かれ、関東方が勝利した。同日、家康は大坂城の堀に注ぐ淀川の本流を堰き止めることを指示し、土俵二十万個の準備を命じた。さらに二十一日、家康は大坂城の周囲に付け城を築くことを命じ、持久戦の備えを固めた。

十一月二十六日、関東方の佐竹義宣が今福砦を、上杉景勝が鴫野砦を攻撃し、それぞれ苦戦の末に奪取した。さらに東軍は二十九日には博労ヶ淵および野田・福島を攻略し、大坂城包囲網を少しずつ狭めていった(『大坂御陣覚書』『大坂陣山口休庵咄』など)。

十二月四日、関東方は大坂城攻略の第一弾として、真田丸を攻撃した。真田丸を攻略しようとした越前藩の松平忠直(家康の孫)、彦根藩の井伊直孝(徳川四天王の井伊直政の次男)、加賀藩の前田利常(外様大名)らの軍勢は真田隊の地の利を活かした巧みな射撃により大損害を受けた。この「真田丸の戦い」によって、真田幸村の名は一躍高まった。