「わが敵は本能寺にあり」
織田信長が家臣の明智光秀に襲撃された本能寺の変は日本史最大級の謎の事件の一つだ。信長はなぜ光秀に襲われたのか? 光秀の背後に「黒幕」はいたのか? など多くの謎がある。
事件は天正十(1582)年に起きた。同年5月29日、信長は上洛して本能寺(京都市)に入った。それより前の12日、信長から西国出兵を命じられた光秀は、居城の坂本城(滋賀県大津市)へ帰っていた。
光秀はその後、坂本を発ち、26日、丹波亀山(たんばかめやま)城(京都府亀岡市)に入る。翌日、愛宕山(あたごやま)(京都市)参詣。一宿参籠(さんろう)して二度、三度と籤(くじ)を引くが、その胸の内は謎だ。
28日、光秀は連歌師・里村紹巴(さとむらじょうは)らと百韻連歌(ひゃくいんれんが)を興行し、「ときは今あめが下知る五月かな」と発句した。これを聞いて、紹巴は慄然(りつぜん)とする。紹巴は次のように解釈した。「とき(時)」は光秀の出自といわれる土岐(とき)氏の「土岐」、「あめが下知る」は「天下を治める」という意味だとして、この句は「今こそ土岐氏の一族の私が天下を取るときだ」という意味にとらえたのだ
6月1日の夜、光秀は明智秀満(ひでみつ)や斎藤利三(さいとうとしみつ)ら重臣に謀反の意志を伝える。そして、亀山城を出た軍勢が桂川にさしかかると、光秀は全軍を停止させ「馬の轡(くつわ)を切り捨てよ」「新しい草鞋に履き替えよ」「火縄に口火をつけよ」と臨戦態勢を命じた。
戸惑う将兵らに光秀が発したのが、「わが敵は本能寺にあり」という有名な言葉である。