和睦成立

徳川家康は大坂城の堅牢さを十分承知していたため、大きな犠牲を伴う力攻めには当初から否定的だった。

家康は主戦論の秀忠を抑えつつ、大坂方と講和交渉を進めていた。しかし、真田丸の戦いの勝利で勢いづいた大坂方が「淀殿が人質となって江戸に下るかわりに、籠城している牢人衆に知行を与えるため加増してほしい」と強気の要求をつきつけて家康が反発したため(『駿府記』)、交渉はいったん暗礁に乗り上げた。

ところが、数日後には、一転して和睦の気運が高まった。家康は「石火矢」と呼ばれる大砲をオランダ・イギリスから購入し、本丸や天守を砲撃した。大砲の弾が淀殿の御座所に直撃したため、徹底抗戦を説いていた淀殿は和睦に傾いた(『難波戦記』『天元実記』)。

十二月十八日・十九日の両日、関東方と大坂方の和平会談が行われた。

大坂城の二の丸・三の丸を破却すれば、淀殿が人質として江戸に下る必要はない、との結論に至った。淀殿が人質になる代わりに、豊臣家首脳部の織田有楽斎・大野治長がそれぞれ息子を人質として提出することになった。

加えて、大坂方の将兵については、豊臣譜代衆・新参牢人衆を問わず、お咎めなし、と決した(以上、家康側近の林羅山が記したとされる『大坂冬陣記』による)。二十日から二十二日にかけて、大坂方・関東方の間で使者が行き来し、豊臣秀頼と徳川家康・秀忠が誓詞(起請文)を交換し、和睦が正式に成立した(「土佐山内家文書」)。

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堀の埋め立てと和睦の破綻

和睦が成立した翌日の十二月二十三日、徳川家康は堀の埋め立て工事を命じた。関東方は数日のうちに惣堀(惣構の堀、外堀)を埋め立てた。それに留まらず、関東方は二の丸・三の丸の破却に取り掛かった。

これに慌てた大坂方は家康側近の本多正純に抗議した(家康は既に大坂を去り、駿府へ向かっていた)。和睦では、二の丸・三の丸の破却は大坂方の担当と決まっていたからである。

しかし正純は仮病を使って大坂方の使者と面会せず、二の丸・三の丸の破却に手間取っているようなのでお手伝いしているだけである、と伝言したという(『大坂御陣覚書』)。

こうして翌慶長二十年正月中旬までに、二の丸・三の丸の堀は埋められ、矢倉も全て崩された。大坂城は本丸だけの裸城になった。秀忠と関東方の諸大名は帰国した。

大坂方の諸将は激昂し、牢人衆を中心に埋め立てられた堀を掘り返した。牢人たちは大坂から退去するどころか、新規召し抱えを望む牢人たちが全国からさらに集まってきた。大坂方の軍勢は前年よりも膨れ上がったのである。大坂方の再軍備の動きは、家康に再戦の口実を与えるものだった。

豊臣秀頼・淀殿ら大坂城の首脳部は戦争回避を望んでおり、秀頼と淀殿は使者を駿府に派遣して家康との関係改善を図った。三月十五日、大坂方の使者は家康に謁見して、秀頼・淀殿の書状と進物を献上している(『駿府記』)。

ところが大坂方が京都を放火するという噂が流れ(『慶長見聞書』)、大野治長が釈明のための使者を駿府に派遣した。使者は三月二十四日に駿府に到着した(『駿府記』)。けれども家康は態度を硬化させ、秀頼が大坂城を退去して大和または伊勢に国替えするか、牢人衆を全て大坂城外に追放するか、二つに一つを選べ、という法外な要求をつきつけた(「留守家文書」)。

家康の作戦は、方広寺鐘銘事件で豊臣家を挑発して戦争に引きずり込み、いったん和議を持ちかけて大坂城の堀を埋め、さらに口実を設けて再戦に持ち込む、というものだった。これが通説的理解である。