合戦の発端

まずは、家康側近が記したとされる大御所家康の動静記録『駿府記』の記述などに基づき、大坂の陣の経緯を確認しておこう。

一般に発端は方広寺鐘銘事件と考えられている。

方広寺大仏殿は、豊臣秀吉が京都東山の三十三間堂の近くに建立した寺院である(なお方広寺という名称は後につけられたもので、当時は大仏・大仏殿と呼ばれていた)。

文禄五年(慶長元年、一五九六)の慶長伏見地震で木造大仏が被害を受け、再建の間もなく秀吉が死没したため、豊臣秀頼が唐銅による大仏再建に取りかかった。ところが慶長七年(一六〇二)十二月に失火のため大仏殿が焼け落ちてしまった。しかし秀頼はあきらめず、同十四年から大仏殿と大仏の再建を始めた。

慶長十九年(一六一四)春、再建工事がほぼ完成し、四月には梵鐘の鋳造も行われた。

大仏開眼供養は八月三日、大仏殿供養は同十八日に行われる予定であった。ところが七月下旬に入り鐘の銘文が問題視され、家康は供養の延期を命じた。

よく知られているように「国家安康」「君臣豊楽」の二句が、豊臣の繁栄を言祝ぐ一方で家康を呪詛するものであるとして、家康が激怒したのだ。

豊臣家家老の片桐且元は弁明のため駿府を訪れるが、家康には会えず、家康側近の金地院崇伝・本多正純に詰問される。大坂に戻った且元は三箇条(秀頼の在江戸・淀殿の在江戸・大坂城退去)のどれかを受け入れるべきと提案したため、豊臣秀頼・淀殿の怒りを買い、十月一日に大坂城を去った。

片桐且元は豊臣秀頼と徳川家康に両属するような立場であり、両家をつなぐパイプ役となっていた。その且元を秀頼が一方的に追放したことは、徳川家との断交を意味する。大坂方は、且元を追放した翌日の二日には戦闘準備を始めた。

いわゆる方広寺鐘銘事件は、豊臣家を討伐するための家康の謀略と考えられてきた。

徳富蘇峰は「大阪の戦意発表は、宣戦の原因でなく、結果だ。大阪は最後の通牒を突き付けられ、その上に重ね重ねの無理難題を浴せ掛けられ、坐して亡滅を待たんよりは、寧ろ万一を僥倖せんとして、戦闘準備をしたのだ」と論じている。

徳川家康=狸親父を決定づけた「大坂の陣」での卑怯技…23歳の豊臣秀頼を自害に追い込んだ「攻めの手口」の真意とは_2

豊臣家の募兵と徳川家康の出陣

大坂方は、豊臣秀頼の名をもって、福島正則をはじめとする秀吉恩顧の大名に参戦を呼びかけた。

しかし大坂方の期待に反して、秀頼に味方する大名は一人もいなかった。それどころか、大坂加担の嫌疑をかけられることを恐れて、秀頼からの書状を家康に提出したりした。

徳富蘇峰は「彼らは徳川幕府によりて、その一身の栄達を得、子孫の計を全うせんとした」「人情ほど頼みにならぬものはない」と述べている。

けれども、大坂方は城内に備蓄されていた膨大な金銀をばらまき、諸国の牢人を呼び寄せた。

彼らは徳川に遺恨を持ち、また現在の窮状を打開し立身出世、一攫千金の夢を抱いて大坂に入城した。

牢人衆の代表としては、長宗我部盛親・後藤又兵衛(基次)・真田幸村(正しくは信繁だが軍記類では専ら「幸村」と記される)・毛利勝永(正しくは「吉政」だが軍記類では専ら「勝永」と記される)・明石全登らが挙げられる。

大坂方の兵力は十万(『長沢聞書』)とも七万三千五百(『明良洪範』)とも言う。

一方の関東方はどうか。

片桐且元が大坂城から退去するという報告は、事前に駿府の徳川家康のもとに届いていた。家康は十月一日には大坂討伐を決定し、近江・伊勢・美濃・尾張など沿道の諸大名に出陣を命じた。

家康は伊勢桑名城主の本多忠政(徳川四天王の本多忠勝の嫡男)、伊勢亀山城主の松平忠明(家康の外孫)らを先行して上洛させた。

そして十月十一日に駿府を出発し、同二十三日、五百余りの手勢を率いて京都に到着した。同日、将軍秀忠が五万余の大軍を率いて江戸城を発した。