周囲の人間が語る“その後”の宮崎家
勤が住んでいた西多摩郡五日市町は事件後、あきる野市に名称が変わったが、勤の実家の裏を流れる秋川は変わらず清く澄んでいた。近所の主婦の話。
「(宮崎勤の)お母さんは事件後、2、3年はここに来て、『迷惑をかけた』と近所を一軒ずつ回っていました。いつだったか、(宮崎勤の)お父さんが家に来て、いきなり玄関のたたきに土下座して、『申し訳ない』と泣いていました」
宮崎家と親しかったという男性が取材に応じてくれた。
「宮崎さんの噂はここ数年まったく聞かないね。事件から2年が経った頃に老人ホームに入っていたおばあさんが亡くなったし、お父さんは自殺。その弟(宮崎勤の叔父)も五日市町で印刷業を営んでいて、事件後に勤の家族を支えていたが、数年後に亡くなった」
勤の父親は1994年11月、地上32メートルの青梅市の橋から多摩川に身を投げて自殺した。享年65歳。働き者と評判だった母親は病気で倒れ、体が不自由になったが、勤に面会するため東京拘置所に通っていたという。
2000年から翌年3月まで東京拘置所で雑役係をしていた上地勝彦さん(仮名)が塀の中の勤を語ってくれた。
「私の仕事は食事の配膳や掃除が主ですが、頼まれた本なども運んでいました。宮崎はロリコン雑誌が多かった。舎房で読める本は何冊か決まりがあるが、宮崎は優遇されていたと思う」
勤はぶくぶく太り、頭は禿げ上がって、残っていた髪もボサボサだったという。
「メガネをかけていて、いつもトレーナーを着ていました。毎日牛乳が差し入れされていたから、週に一度はお母さんが面会に来ていたと思います」
死刑確定から2年4か月が経った2008年6月17日、刑が執行された。
精神鑑定で多重人格と判断された勤の言動を“詐病”だという識者もいる。勤は逮捕後、2冊の本を上梓しているが、それらは責任逃れの遁辞かもしれない。
しかし、その言葉は犯罪解明の第一級の資料ではなかったか。“宮崎勤事件”以後に起きた神戸連続児童殺傷事件、京都小学生殺害事件、秋葉原通り魔事件など、“理解困難な殺人”を解明するための原資――勤が次に語る言葉を抹殺する死刑執行は、少し早すぎたのではとわたしは思う。
2023年8月、わたしは10年ぶりに旧・五日市町を訪ねた。勤の実家の跡地は、以前は川遊びに来る人たちの車の駐車場として1日1000円で近所の住民が管理していた。現在、駐車場はきれいに整地され、「和み広場」の看板が立てられていた。近所の住民に話を聞いた。
「3、4年前に勤のお母さんが税金を払えなくなって、あきる野市に物納したんだ。今は老人のゲートボール場だよ。墓も荒れ放題で、いずれは墓じまいになるのでは。勤の遺骨をお母さんが引き取ったという話は聞いたことがない」
勤の逮捕直後、母屋での囲み取材に対応したのは父親で、母親は下を向いたまま何も語らなかった。最後に消え入るような声でぽつりとつぶやいた母親の言葉が、今も忘れられない。
「早く結婚してほしかった」
終わり
取材・文・撮影/小林俊之