二十数年前の企画が急浮上
暮れも押し迫った2009年12月27日、宮﨑駿は鈴木に重大な提案をする。『ローニャ』の準備は中断する。そして、マンガ『コクリコ坂から』を映画化する、と。『ローニャ』の企画にやはり行き詰まりを感じていた鈴木は、宮﨑から『コクリコ坂から』の名前を聞いて、一瞬のうちに二十数年前のことを思い出した。
マンガ『コクリコ坂から』は、『風の谷のナウシカ』公開後の夏に、映画化はどうだろうと議論したこともあった作品だったからだ。
鈴木は当時を次のように振り返っている。
遡ること二十年前。信州の山小屋で夏休みを過ごす際、宮さんは姪っ子が置いていった少女漫画雑誌を繰り返し読んでいました。その中で目にとまったのが『耳をすませば』と『コクリコ坂から』。遊びに来た押井守や庵野秀明らと、「どうやったら少女漫画を映画にできるか」を議論したりもしていました。
結果的に『耳をすませば』は一足先に映画化したものの、『コクリコ』のほうは時代に合わないという理由で企画を断念していたんです。ところが、今回は宮さんの中に明快な企画意図ができあがっていた。
――二十一世紀に入って以来、世の中はますますおかしくなってきている。なんでこんな社会になってしまったのか? 日本という国が狂い始めるきっかけは、高度経済成長と一九六四年の東京オリンピックにあったんじゃないか。物語の時代をそこに設定すれば、現代に問う意味が出てくる――
その考えを聞いて、僕も非常に納得するものがありました。高度成長の結果、暮らしは豊かになったけれど、その後、バブルが崩壊。〝失われた十年〟を経て、いっこうに未来は見えてこない。社会全体が閉塞感に覆われているのを感じていたからです。(『天才の思考』)
マンガ『コクリコ坂から』についてここで少し紹介すると、作者は高橋千鶴、原作者は佐山哲郎で、講談社の月刊誌『なかよし』に1980年に掲載された少女マンガだ。宮﨑の著書『出発点』に収録された文章に詳しく書かれているが(『脚本 コクリコ坂から』角川書店刊にも再録)、宮﨑はこのマンガを読んだ当時、人を恋する真情にあふれている、主人公たちが断固としていて軟弱でないのがいい、などの点が気に入ったとのことで、『ナウシカ』制作後の神経症的な疲労の回復にずいぶん役立ったそうだ。
『コクリコ坂から』の名前を久しぶりに聞いた鈴木は、即座にその映画化を決意。年が明けてすぐに、鈴木は吾朗にその旨を伝え、吾朗もその提案を受け入れた。こうして2010年1月、映画『コクリコ坂から』の企画が決定した。作画監督はそのまま近藤勝也が担当し、脚本は宮﨑駿が書くことになったが、鈴木の提案により、『アリエッティ』と同様に、丹羽圭子が脚本執筆に参加することになった。つまり『ゲド戦記』は宮崎吾朗・丹羽圭子の脚本だったが、『コクリコ坂から』は宮﨑駿・丹羽圭子の脚本となる。
宮﨑のこの映画化企画には、原作マンガに対する大きな変更点がある。原作は描かれた当時そのままの時代設定、つまり1980年頃の話だったが、前述の経緯もあって、宮﨑はこれを東京オリンピック前年の1963年に変更した。
今の日本の枠組みができたのはおそらくその頃であり、今、映画の時代をそこに設定することには意味がある、という考えからだった。1963年は高度経済成長と大量消費社会が本格化した頃であり、今の社会のあり方の直接的な始まりの時期にあたる一方、終戦後18年でまだ戦争の影響が残っていた時期でもある。
また、原作マンガは舞台を特に定めていなかったが、宮﨑は映画の舞台を横浜と特定して企画を立てた。これまでのジブリ作品は、時代、舞台、いずれも特定していないことが多かったので、『コクリコ坂から』はその点異色である。また、それとつながる話だが、ファンタジーの要素が一切ない点はジブリ作品では初めてのことだろう。
なお、『山賊のむすめローニャ』は後に吾朗の手で、NHKとドワンゴの共同製作で全26話のテレビシリーズ『山賊の娘ローニャ』として制作され、2014年から2015年にかけて放送された。