武田勝頼の最期
さて、武田勝頼だが、裏切った木曽義昌を討つべくいったん出陣したものの、その後、穴山梅雪の離反を聞いて居城の新府城へと引き返した。しかし、織田軍の猛進撃を知ると、三月三日に城に火をかけている。この城では敵の大軍を防ぎ切れないと判断したのだ。そして一族や妻子を引き連れ、七百名の家来とともに郡内の小山田信茂の岩殿城へ退避することにした。
ところが小山田氏が土壇場で反旗を翻し、勝頼一行を拒んだのだ。ここにおいて勝頼は自刃を覚悟し、先祖の武田信満が討ち死にした天目山を目指した。
『三河物語』によれば、勝頼に従う人々は激減し、田野という土地(河原)で休息をとっていたところ、滝川一益率いる織田軍の襲撃を受けたという。このとき近臣の土屋惣蔵が鬼神のような働きをして敵を斬りまくり、その間、勝頼は息子の信勝や側室たちと腹を切ったとある。惣蔵は主君らの介錯をしたあと、自らも腹を十文字に割いて果てた。
『信長公記』では、勝頼は田子(田野)にある屋敷に柵を設けて陣を敷いていたが、滝川一益らに見つかったため、勝頼は一族の女と子供をすべて刺殺させた後、部下とともに打って出たという。このときやはり、土屋惣蔵がすさまじい働きをした後、自刃したと記されているが、勝頼の死に様については一切触れられていない。いずれにせよ、勝頼は三月十一日に命を落とし、ここに名族武田氏は滅び去ったのである。
同日、家康は穴山梅雪とともに甲斐国府中(甲)の信忠の陣所に入っているので、ここで武田滅亡を知ったと思われる。
勝頼の首は、滝川一益から信忠のもとに運ばれたが、信忠は関可平次と桑原助六にそれを持たせて信長のところに届けた。三月十四日、信長は下伊那の浪合(『信長公記』では飯田)で首を確認し、京都で獄門にかけるよう命令した。
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