脚色は原作の換骨奪胎

恩田 脚色の話に戻るんですけど、『犬王』は、原作のグルーヴ感というか、疾走感が映画にも宿っていて、トーンが一致しているように思いました。この原作を脚色するってどうやって? みたいな難しさはなかったですか。
野木 脚本としてはわりとシンプルです。疾走感みたいなところは、監督の湯浅政明さんのアニメ力がオバケなところがあるので、言語化できない部分はだいたい湯浅さんです。原作より手が十倍ぐらい伸びていたりとか、「こんなだったか!?」っていう。私も見てびっくりしました。湯浅さんのイマジネーションがすごいんです。
恩田 わかります。私、湯浅さんの『マインド・ゲーム』がすごく好きなんです。
野木 私もあの作品、大好きです! とはいえ『犬王』に関しては、私はいかに原作を残すかについて湯浅さんと戦ったって感じです。放っておくと湯浅さんのイマジネーションが迸(ほとばし)りすぎて、原作から離れたディテールがどんどん出てきちゃう。それで、話がつながらなくなったり、物語の根幹がぶれてしまいそうになった時に、「ここの意味合いが変わっちゃったら、この後ろが意味なくなっちゃうんですよね」といった話し合いを細かくやりました。原作を映像化する以上は、離れすぎてはダメですよね。だったらオリジナルでやれよっていう話になるので。
恩田 私は映像化については、「映像と小説は別物だとわかってますからお任せします」というスタンスなんです。ただし、「この原作を映像化しようと思った部分は大事にしてくださいね」とはお伝えするようにしています。
野木 そうですよね。脚色って換骨奪胎だと思うんです。原作を一回分解して作り直す。脚本ができると原作者チェックがあるじゃないですか。それに関して原作者としてはどうなんですか。
恩田 めったに文句は言わないですね。昔はひどいのがありましたけど、最近はそうでもない。日本の映像界がここ十年ぐらいで、やっと脚色の意味をわかるようになったんじゃないかと思いますね。上から目線で失礼な言い方ですけど。
野木 確かにそうなってきましたよね。SNSの普及も関係しているのかなと思います。昔はやったもん勝ちみたいなところがあったけど、今はちょっとしたことでも原作ファンに叩かれるじゃないですか。
恩田 映像化するということがいかにリスクが高いことかを昔はあんまりわかっていなかったんでしょうね。それによく言われることですけど、アメリカのアカデミー賞には脚色賞があるけど、日本のアカデミー賞にはない。
野木 オリジナルが少ないという面もあれど、あっていいと思います。
恩田 脚色賞がないというところに、原作を映像化する意味をわかっていないことが象徴されていると思うんです。脚色って難しいですよね。濱口竜介監督の『ドライブ・マイ・カー』がアカデミー賞の国際長編映画賞を受賞しましたけど、脚色賞にもノミネートされていて、私は脚色賞を取ってほしかったんです。あれこそ脚色だなと思ったから。もし取っていたら日本の映像界の脚色についての考え方も変わるんじゃないかって期待があったんですよね。
野木 恩田さんは、自作の映像化作品で気に入っているものってあるんですか。
恩田 『蜜蜂と遠雷』は驚きましたね。まさか映像化できると思わなかったので。石川慶監督から「映像化したい」というお話をいただいた時も、「またまたそんな」みたいな感じで、きっと実現しないだろうと思っていたんです。でも、できあがった作品が本当に素晴らしかった。ちゃんと映画になっていて、すごく良かったんです。
野木 石川監督、アーティスティックなタッチの作品を撮られますよね。
恩田 石川監督は自分で脚本も書くし、編集もされる方ですけど、それこそ脚色が上手な方だと思いますね。
野木 逆にこれはないわって思ったものはありますか。
恩田 ありますね。とある作品の映像化で、すごく惜しかったことがあったんです。初稿の脚本が素晴らしかったんですよ。このまま撮ってくれたらもう完璧って思ったのに、なぜか監督がどんどん余計な場面を増やしてしまって。登場人物がたくさんいるので、監督がそれぞれの場面が撮りたいって言うんですよ。
野木 そういう監督いますね。そういう時はプロデューサーが監督を止めてくれないといけないんですけどね。『鈍色幻視行』に出てきましたね。あんなシーンいらないって脚本家がぽろっと言う場面。私、読んでいて「ひえー!」って思いました(笑)。
恩田 いるじゃないですか、こういう絵を撮りたいから無理やり入れちゃうみたいな監督。
野木 いる。
恩田 だから、それは違うって思ったの、すごくよく覚えていて。
野木 もったいないですね。私だったら監督と喧嘩になったと思う。
恩田 なまじ初稿が良かっただけに悔しかったんですよね。