半蔵が眠る、半蔵が信康のために創建した寺
しかし、鬼と呼ばれた半蔵も、土壇場で信康の首に刃を当てることができず、ただただ涙を流すばかりだった。そこで仕方なく、通綱が半蔵に代わって介錯をおこなった。ちなみに信康の首は信長のもとに送られたという。
これを後に知った家康は、「あの鬼と呼ばれている半蔵も、信康の首は打てなかったか」と語ったという。が、これを耳にした通綱は大いに恥じ、徳川家から逐電して高野山に籠もり、後に家康の次男・結城秀康に仕えたといわれる。
一方、半蔵は慶長元年(一五九七)に五十五歳の生涯を閉じ、麴町の安養院(のち西念寺と改称)に葬られたが、この寺は半蔵が信康のために創建した寺だった。
瀬名を殺した岡本や石川は、彼女の怨霊が祟り、子孫は絶えてしまったそう
さて、築山殿である。彼女は信康が自刃する前月の八月二十九日に家康の命令によって殺害されていた。浜松近くの遠江国富塚において野中重政、岡本平右衛門、石川太郎右衛門らによって刺殺され、首をもがれたという。三十八歳だった。遺体は浜松の西来院に葬られた。
築山殿の最期を聞かされた家康は、「女のことではないか。尼などにしてどこかへ落とすなど、もっと違うやり方があったろう。なのに首を落とすとは」と眉をひそめたという。野中は大いに恐れ、故郷の遠州堀口村に蟄居してしまったそうだ。
なお、『松平記』には、築山殿を殺した岡本や石川は、彼女の怨霊が祟り、その子孫は絶えてしまったと記している。
しかし近年は、信長の命令ではなく、家康が外交方針の違いや御家騒動を鎮めるため、自ら信康母子を処罰したという説が有力になりつつある。
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