義母・瀬名は「唐人医師と不倫してます」(五徳)

さらに悪口は、姑の築山殿にもおよんでいった。築山殿は、甲斐から「めつけい」という唐人医師を招き、彼と不倫しているというのだ。さらに彼を通じて甲斐の武田勝頼に使いを送って内通したとある。しかも彼女は、謀反を企み、息子の信康を引き込んだという。

弘治三年(一五五七)、人質時代に家康は、今川義元の重臣・関口氏純の娘・築山殿と結婚した。彼女の母は義元の妹だったといい、義元の姪にあたった。だから、この婚儀によって家康は今川一族として扱われることになったわけで、その立場を安泰にした良縁だったといえよう。

ところが、桶狭間の戦いで事態は大きく変わる。義元の死後、家康は松平氏歴代の居城・岡崎城に入り、駿府へ戻らなかった。そしてその後、今川氏からの独立を決意、尾張りの織田信長と提携し、今川領の攻略を始めたのである。このとき築山殿と嫡男の信康、そして娘・亀姫は、まだ駿府で暮していた。つまり家康は、妻子を見捨てたのである。

実際、家康の寝返りに激怒した今川氏真は、築山殿とその子供たちを殺そうとしたといわれている。これを制止したのが、築山殿の父・関口氏純であった。その後、前述のとおり、人質交換によって築山殿と子供たちは岡崎城に入ることができたが、関口氏純は氏真に殺されてしまった。

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実際は夫婦仲がよくなかった瀬名と家康

自分の都合で世話になった今川氏を裏切り、私たちを見捨て、父を死にいたらしめた夫の家康。おそらく築山殿は、夫の仕打ちを深く怨んだに違いない。実際、『松平記』にも築山殿が「我父ハ家康の為に命を失ひし人」と思っていたと記されている。

だが、家康にとってはあくまで政略結婚であり、今川氏と手を切ったいま、それほど築山殿を大切な存在だとは見なしていなかったのではないか。

一説には、この時期、家康は築山殿を離縁したという。それに、家康の生母・於大も、実家の水野氏が今川から織田方についたことを理由に、広忠から離縁されている。それを見て育っただけに、妻子を手放すことは戦国の習いとして諦観していた可能性はあると思う。

ともあれ、夫婦仲が良くないことは、浜松城で家康と同居しなかったことでも想像できる。