酒井忠次は信長に、「いずれも存じております」
徳姫は信長の娘で、織田・徳川同盟を強固なものにするため、永禄十年(一五六七)に信康のもとに輿入れしてきた。
徳姫の書状には、夫の信康と姑の築山殿を非難する文言が記されていた。
『三河物語』によれば、信長は忠次の前で徳姫の書状を広げ、一つ一つ「これはどうなんだ」と問いただしていった。それについて忠次はなんと、いずれも「存じております」と肯定していったというのだ。
こうして忠次が十カ条まで事実だと認めたところで、信長は残る二カ条にはもう目さえ通さず、「徳川家の家老がことごとく肯首するのであるから、すべて事実に間違いなかろう」と述べ、忠次に向かって、信康に「腹を切らせ給へと家康へ可被申べし」(前掲書)と仰せつけたのである。
そこで忠次は、信康の岡崎城へは立ち寄らず、そのまま家康がいる浜松城へ入り、主君・家康に信長の言葉を伝えた。
男児を産まない嫁に怒る姑、とにかく残忍で荒々しい困った夫
ただ、『三河物語』には、徳姫の書状にどんな文言が記されていたのかについて、一切言及がない。幸い、同じ時期に成立した『松平記』には、書状が十二カ条だったかは不明ながら、その内容が明記されている。
同書によれば、徳姫は信康の子を産んだが、女児だったので信康も築山殿も喜ばず、次に産んだ子も女だったとき、信康は腹を立てたという。これが原因で二年前から信康・徳姫夫妻は不仲になった。さらに夫婦の不和は、信康の性格も一因だった。
とにかく信康が残忍で荒々しい性格だという。たとえば、僧侶と出会うと狩りで獲物が捕れないという言い伝えがあったが、鷹狩に向かう途中、信康は不運にも僧に出くわしてしまった。するとその坊主を引っ捕らえて首に縄をつけ、自分の馬の脇に結えつけ、馬を走らせて縊くびり殺したのである。また、町で踊りが催されたさい、見物していた信康は、踊りが下手だと言って弓で踊り子を射殺したという。
手紙の中で徳姫は、こうした信康の荒々しく無慈悲な言動を父の信長に告発した。