瀬名は自分と夫の関係がよくないが故、息子夫婦に嫉妬
永禄十一年(一五六八)、家康は今川領の遠江国への侵攻を開始し、元亀元年(一五七〇)に本拠地を岡崎城から遠江国の浜松城へ移した。このとき家康は、十二歳の信康に岡崎城をまかせたが、本来ならば、正室の築山殿は浜松城に連れて行くべきだろう。それなのに、なぜか彼女をそのまま岡崎城に残したのである。確たる事情は判然としないものの、築山殿にとっては屈辱的な措置だったのではなかろうか。
家康は精力旺盛で、生涯に十数人の側室と十六人の子供をもうけている。ちょうどこの時期から次々と側室を抱えはじめた。『松平記』によれば、こうした状況に対して築山殿は、「自分こそが家康の本妻で、嫡男・信康の母である。だから本来なら、家康から賞翫に与かるべき立場なのに、長年、岡崎城下の築山という場所に住まわされ、目をかけてもらえない」と強い不満を抱くようになったという。彼女の嫉妬心は、岡崎城で同居していた信康の妻・徳姫にも向けられていく。
信憑性に欠ける編纂史料だが、江戸後期に成島司直が改撰した『改正三河後風土記』(桑田忠親監修秋田書店)には、次のような逸話が載る。
信康と徳姫の仲睦まじい姿を見た築山殿は、家康との関係がよくないだけに激しく嫉妬し、二人の仲を引き裂こうとさまざまな策略をめぐらせた。信康に対し「跡継ぎの男子をつくらねばならぬ」といって、側室をおくことを強く勧め、みずから絶世の美女を捜し出しては信康にあてがったのだ。やがて信康は、その中の一人をいたく気に入り、色情におぼれて溺愛し、徳姫とのあいだも疎遠になっていったという。
築山殿にとっては胸のすく思いだったろうが、この嫁姑の確執が徳川家に大変な事態をもたらすことになった可能性がある。
#2『刺殺され、首をもがれた…家康の息子・信康と正室・瀬名の壮絶すぎる最期「鬼の服部半蔵に涙ながら語った魂の弁明」』はこちら