同時に2本撮る二毛作に突入するスピルバーグ
まさかの『E.T.』 (1982)で2回分使ってしまうとは思わなかったけれども、書き始めて初めてわかる己がスピルバーグ愛の深さよ…でございますが、動物パニック映画かと思いきやハードな海洋冒険映画だった『ジョーズ』(1975)に始まり、愛に満ちたファンタジーかと思いきや冷徹なシミュレーション映画だった『未知との遭遇』(1977)といい、表層と実質のギャップが彼の映画に奥行きを与えてきました。
『E.T.』も、まさしくその系譜といえましょう。その前に『1941』(1979)という、表層も実質も身も蓋もない映画がありましたが、これはなかったことにしましょう。個人的には大好きな映画ですが。
ただし、映画の道を分け入っていくと、その魅力を妄信的に受け入れるだけでは済まなくなります。必ずやってくるのが映画好き同士による対立です。スピルバーグ好きを筆頭とする娯楽偏重主義に対する、芸術原理主義者による粛清であります。
より優れた映画を嗜む者であれば、スピルバーグの商業主義的映画作りなどけしからん、猛省せよと恫喝されます。純粋な娯楽の追求があったっていいではないかと思うんだけど、映画好きたる者、もっと崇高なものを目指すべきだと怒られます。
そんな論調を知ってか知らずか、当のスピルバーグも自身の監督作は社会性とか作家性を第一義に唱えるような映画作りに舵を切り、それまでのエンタテインメント寄りのジャンル作については製作側に回って若い監督たちに撮らせつつ、そのブランドイメージを強固にしていきます。
迷走というほどひどいもんじゃないけど、本来の作家性一筋で映画を作り続けている監督たちの作品と比べるとどっちつかずに見えてしまい、いつしかシネフィル気取りの視点を持ち純粋に映画が楽しめぬ体になってしまった己を呪うことになるんですが、1990年代中盤にさしかかってから、スピルバーグは娯楽性の高い映画と作家性の強い映画各1本それぞれをほぼ同時期――どちらかの撮影が終わり、長い仕上げ期間中にもう一方を撮影するーーという二毛作スタイルを確立し、奇跡のV字回復を遂げて現在に至るのです。
『ジュラシック・パーク』と『シンドラーのリスト』(いずれも1993)とか、『ロスト・ワールド』(1997)と『プライベート・ライアン』(1998)、『宇宙戦争』と『ミュンヘン』(いずれも2005)…最近だと『レディ・プレイヤー・ワン』(2018)と『ペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文書』(2017)。相対するそれぞれの作品がシナジーを生み出しているのではないかと思うのです。とてもじゃないけど真似できませんが。
そして老境の域に達して好きな映画だけを好きに撮れる――本当に羨ましい人生ですが、そんなスピルバーグがいま選んだ題材は自分の人生。最新作『フェイブルマンズ』(2022)は、映画を愛し、映画作りを志し、それを天職として選んだ自身を主人公にした映画でした。
必要なのは才能と運、そして覚悟であると唱え、たとえ地獄の苦しみがあろうとも最高の喜びが待っている――そんな我が人生を高らかに歌い上げます。