配偶者を愛してはならなかった時代さえある
もちろん、昔も既婚者が恋に落ちることはあった……。しかしそれは通常、配偶者とではなかった。そのための情事だったのだ。
アレクサンドル・デュマがウィットを効かせて言ったように、「結婚の契りはあまりにも重く、それを運ぶには2人、ときには3人が必要」だった。配偶者を恋愛対象にすることは不可能であり、不道徳であり、また愚かだと見なされることが多かった。
ストア哲学者のセネカはこう言った。「妻を愛人のごとく愛するほど不浄なことはない」。また、ローマの哲学者たちは、妻を情熱的に愛している人を何と呼んでいたか。「姦通者」だ。
さらに重要なことに、クーンツによれば、夫婦間の恋愛は、社会秩序を脅かすものだと考えられていた。当時の生活は厳しく、個人の幸せを優先する余裕はなかった。個人の充足感より家族、国家、宗教、地域社会への責任を優先しなければならなかったのだ。
結婚は、きわめて重要な経済的、政治的制度だったので、愛の気まぐれに任せるわけにいかなかった。情熱だって? そんなものには蓋をしたほうがいい。邪魔になるから。一夫多妻制の文化では、妻を愛することが容認されていたが、それは2番目か3番目の妻の場合だった。まずは社会を営まないとならないのだから!
しかし、その後状況が変わった。1700年代に入り、啓蒙時代が到来した。人びとは、
「人権」という、新しくてとっぴなものについて話し始める。誰もが突然賢くなったわけでも、立派になったわけでもない。要はまたも経済。自由市場だ。人びとはもっとお金を稼ぐようになり、一人でも暮らしていけるようになった。個人主義が現実的な選択肢になり、それで1800年代には、ついに人々が愛のために結婚するようになった!
ところがじきに、なんだか事態が悪化した。たしかに、個人はより多くの選択肢と、愛と幸福の素晴らしい可能性を手に入れたが、「すべてを克服する」ことに関して言えば、結婚ははるかに不安定になった。結婚に対する人びとの満足度を高めた理由そのものが、結婚を壊れやすくしてしまったのだ。