編集者の役得は、やはりスターに会えること

──「ロードショー」編集部では13年間仕事をされたわけですが、どんな日々でしたか?

いつも仕事が大量で、毎月自分の担当が決まってから「こんなにできるのか、私!?」っていうプレッシャーに押しつぶされそうになる毎日で。ただ、あなた(註・筆者)とか、イラストレーターのともゑさんとか、新人を見つけては育てていくのはものすごく楽しくて。

──そこが不思議なんですよ。ぼくなんかは杉原さんから原稿執筆を基礎から指導してもらったんですが、忙しいのにどうしてそんな面倒なことをしてくれたのか謎で。

“種を撒く”ことが人生のテーマだと個人的に思っているんです。だから、自分が撒いた種が芽を出したんだという嬉しさがすごくあった。

ただ、これは私だけじゃなくて、それが集英社の社風だということもあります。そもそも「週刊少年ジャンプ」が、1968年創刊の後発の漫画誌なので、新人発掘を命題としてきた。私も入社時にはジャンプ系の編集部にいて、その精神を叩きこまれたんです。それをそのまま「ロードショー」で生かしただけで。

──個人的に思い入れのある表紙はありますか?

長年務めていただいたアートディレクターが校了直前に急逝されて、棺に入れたジョニー表紙号や、最終号ひとつ前のアンジェリーナ・ジョリーの号にもぐっときますが、アリシア・シルヴァーストーンの表紙も思い出深いですね。あのころは来日したスターを何日も追っかけ取材をして、一緒に食事をしたり、スタジオで特写もした。

カメラマンの亀井重郎さんの腕がよく、アリシア本人も気に入って、渡米して専属カメラマンにならないかというお声がかかったほど。アリシアは局地的な人気で終わってしまったけど、彼女のキュートさと強さをとらえた写真がすばらしくて、私自身にとっても初めて親しくおしゃべりしたスターだったので忘れられません。

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アリシア本人とパブリシストもお気に入りだった、日本での特写を使用した表紙
©ロードショー1996年3月号/集英社

──「ロードショー」の編集で役得だなと思ったことはなんですか?

やっぱりスターに会えたこと。取材の場はビクビクもしたけど、わくわくしましたね。

──取材は主にライターさんがするんですよね?

そうです。でも、たまに自分でやることもあって。2000年代に入ると紙媒体の取材時間がどんどん短くなってきたから、通訳さんを通す時間がもどかしく、英語でインタビューもしました。私なんかの英語力でよくやったなあって思います(笑)。でも直接取材した人のことは特に忘れられない。ポール・ウォーカーの水色の瞳とか。2013年に40歳で事故死しちゃったから、ますます鮮烈です。
とにかく「ロードショー」では、人生で初めてのことをたくさんやらせてもらえました。

──ちなみに「ロードショー」でもっとも売れた号はどれですか?

発行部数でいうと『E.T.』(1983年2月号)だけど、盛り上がったのは1997年の『タイタニック』だと思う。特集別冊も重版を重ねたし。『もののけ姫』もあって、映画業界全体が盛り上がっていましたね。

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記録によればこの号が、史上最高の35万5000部を発行
©ロードショー1983年2月号/集英社