「センスはなかったですね、ヤツは。体も硬いし」

「彼の技術じゃ無理だ、って誰もが思いますよ」登山器具もまとも扱えなかった栗城史多がマッキンリーを目指した理由_2

酪農学園大学の山岳部に入った経緯については、講演でもよく語られている。

大学生になって1カ月ほど経ったある日、栗城さんは高校時代の友人に会うため、酪農学園大学を訪れた。その構内で「山岳部員募集」の貼り紙を目にする。

「そういえば、うちの大学には山岳部はなかったな」

山が好きだったかつての交際相手の顔が目に浮かび、冗談半分で入部希望者の欄に名前と連絡先を記入した。主将だった3年生のGさんから不愛想な口調で電話が入ったのは、それから3カ月も経ってからだった。栗城さんは自分が連絡先を書いたことなどもう忘れていて、誰が何のためにかけてきた電話なのか、すぐには理解できなかったという。

当時、酪農学園大学の7年目4年生だった森下亮太郎さんは、珍妙な新入部員に心底驚いたと話す。

「随分気合が入ったヤツだな、って。よその大学から入部するなんて初めてのケースでしたから」

のちに森下さんは、栗城さんの「エベレスト劇場」に深く関わることになる。

森下さんの自宅アパートは、山好きの若者たちの溜まり場だった。そこには人工壁が設置されていた。森下さんが積雪量の調査やテレビ番組の撮影機材運搬など、山に関わるアルバイトをした稼ぎで購入したものだ。若者たちはここで様々なムーブを反復練習して技術を磨いた。栗城さんも2回、この壁を登りに来たそうだ。

「センスはなかったですね、ヤツは。体も硬いし」と森下さんは苦笑する。

「在学中は一緒に山には行かなかったけど、山関係のアルバイトを紹介したりはしてました」

栗城さんを直接山で指導したのは、もっぱらGさんだった。しかし3年生になった2004年、栗城さんは師と仰いでいたGさんと仲違いをしてしまう。

その原因だが、私が栗城さんから聞いた話と森下さんの証言とでは一致しない。
栗城さんは私にはこう言った。彼の著書にも同様の記述がある。

「G先輩からマッキンリーに誘われたんですよ。一緒に登ろうよ、って。迷ったんですけど……結局断ったんです。先輩の後ろについて登っても、そこは先輩の山でしかない、ボクはボクの山に登りたい……そう思って単独で行くことにしました」

「そのマッキンリーはボクの話です」と森下さんに言われて、私は「え?」と声を上げてしまった。仲違いをしたGさんの計画ではないという。