母、妹と共に父が暮らす東京へ

「いつ死ぬかわからない、みんながみんな天寿を全うできるわけではない」と中越地震から学び、それを機に、家族がバラバラであることの怖さを感じました。

もし父が一人で被災したら、誰も助けてあげられない。悩んでも近くにいないから話もしづらい。小さな不安が徐々に大きくなって、私は家族一緒に生活したいという思いを両親に伝えました。そして新潟を出ることになったのです。

中越地震に被災した7歳から毎年10月に遺書を書いている。フジテレビ渡邊渚アナウンサーの死生観とは_3

あの時、新潟を出る決断をしていなければ出会わなかった人たちがいて、おそらくこの職業にも就いていなかったと思います。逆もしかり、新潟にいればもっと違う生き方が広がっていたでしょう。

この決断が自分の人生においての大きな分岐点になったことは間違いありません。たまに辛いことがあってこの分岐点を思い出し、弱気になりそうな時もあるのですが、「この人生を選んだのは自分なのだから責任を持て!」と自分を奮い起こします。

そして何より、7歳のわがままなお願いを聞いてくれた両親にはとても感謝しています。

あの日を境に、始めたことが2つあります。一つは『毎日寝る前に必ずお祈りをする』ことです。お祈りといっても、宗教的なものではなく、「家族や大切な人たちが、理不尽に苦しみを与えられることなく、明日を笑って過ごせますように」と心の中で唱えるというもの。

これは25歳になった今も、ベッドに入ると必ず空に向かって言います。効果があるかないかはわかりませんが、習慣の一つになっています。

中越地震に被災した7歳から毎年10月に遺書を書いている。フジテレビ渡邊渚アナウンサーの死生観とは_4