当事者の「隣」に立つ

——APDでない人は、当事者とどのように関わっていけばよいのでしょうか。

取材を進める中で「APDの方を手伝いたい」という思いが湧き、それをそのまま本書の編集者に伝えたら「『マジョリティがマイノリティを手伝う』という構図は、正しい在り方なのか」と問われ、悩んだ時期がありました。

そのときに知ったのが、地域活動家・小松理虔(りけん)さんの“共事者”という言葉(※)です。これは「社会の一員としてその物事を共にし、ゆるふわっと当事者を包み込んでいる」人のことで、この言葉がとても腑に落ちたんです。

※出典:webゲンロン「当事者から共事者へ(1) 障害と共事|小松理虔」

これまで私は、APDだけでなく何らかのマイノリティの人々が気になっていたけれど、その一方で「彼らとどう関わったらいいのかわからない」と思っていました。当事者ではないから、土足で踏み込んではいけない。でもその置かれた状況や思いを伝えたい。そう思っていていいのだろうか、と。そんな迷いが晴れた感じがしました。

——”当事者性”を重要視しすぎずに関わる、というイメージでしょうか。

先にも述べた通り、当事者としての“ラベル”には大きな価値があります。一方で、その“ラベル”が人との関わりを難しくしてしまうことがある。たとえば私自身も、「この人はCODAだから気遣ってあげなきゃ」というような態度に、居心地の悪い思いをしたことがあります。

そうした「配慮する/される」という向かい合った関係ではなく、自然と隣に立っているような関係でありたいと思うんです。

——APDを取り巻く環境には多くの課題がありますが、まず解決してほしいことを教えてください。

まずは多くの人々にAPDを知ってほしいと思います。「APDという困難があるんだ」と知ることで、見える景色が変わるからです。もしかしたら自分の子どもや友人、ご近所の方がAPDで悩んでいるかもしれません。そして、聞こえにくそうで困っている方がいたら「APDかも?」と考えてみてもらえたらと思います。

そして、当事者の声を「なかったこと」にしないでほしいです。他のマイノリティにも共通しますが、これまで散々声を上げても、その声をかき消された人がたくさんいます。だから「聴力に問題がないのに聞き取れない? そんなの気のせいだ」と言われている人々がいるのを受け止めてほしい。自分の価値観や主観で「そんなのあり得ない」と決めつけないでほしいです。


取材・文/金指 歩

#2「APDの診断ガイドラインを作りたい。APDの専門医が語る当事者の声とAPD普及・研究を行う理由」はこちらから