新海誠と宮崎駿の「自然」観のちがいとは

土居 この作品では人間のロジックと神様のロジックが並行して動いていて、神様側は一貫して災害を治めるための最適解を選んでいる。だけど神様は人間に合わせた生き方はしない。

それでダイジンの行動はミスリーディングになってるわけですね。最初は閉められた戸を開けているって思われるけど、実は開いているところに連れて行ってくれてたっていうように。

ぼくはそこのわかりづらさをどれくらい意図的に作っているのかが気になっていて。
好意的に考えると、間違いなく日本の神話に対する目配せがあって、西洋的な神話とはちがった自然と一体化したものとして神を描いている。
あえてそういった全然ちがうロジックで動かしたことによる違和感なのかなと思ったりもするんですけど。

北村 その点に関連して土居さんに伺いたいなと思っていたのは、『天気の子』で、たしか人新世の雑誌か何かが出てきますよね。新海誠はそういったものも参照しているんでしょうか。

土居 そうみたいですね。また、雑誌『ムー』の読者でもあって、オカルトめいたものにも関心があるみたいです。

北村 そこが十分に伝わってない気がするんですよね。
というのも、作中でジブリに対する目配せがありつつも、結局『天気の子』も『すずめの戸締まり』も「人間が自然を抑えられる」という風に描いている。それは「自然に圧倒される人間」という宮崎駿の描いてきた世界観と正反対であるように思うんですよね。

初期の新海作品でも、「自然に圧倒される人間」が描かれてきましたが、最近の作品はそうではなくなってきている。そこに危うさを感じます。