高校卒業後、連日喧嘩。「大人は誰も信じられない」

自殺直前の母の忘れられない一言とは。「大人は誰も信じられない」喧嘩に明け暮れて大立ち回りの後に上京、AVプロダクション設立、嘘だらけの芸能界デビュー、嶋大輔との伝説の喧嘩を高知東生が語る_2
野球部に所属していた高校1年生の頃

――その後、それまで父親だと聞かされていた人が、実は本当の父親ではなかったと知ることにもなり。

どうして大人は誰一人、俺に真実を教えてくれないんだ、もういい加減にしてくれって、ぶっ壊れました。しかもそのとき聞かされた本当の父親というのも、また別の県のヤクザだったんです。

それまで地元では中井組の組長の息子として生きてきたのに、実は違った。そのことをまわりに知られるのもすごく怖かったです。そういう恐怖もあって、大人はもちろん、誰のことも信用できなくなり、荒れていきましたね。

母親の遺言でもあったので、高校を卒業したあとは、任侠の世界ではなく、高知県の大丸デパートに就職しました。就職はしたけど、まぁ生活は無茶苦茶でしたよ。

高校までは明徳義塾の野球部で寮暮らしの丸坊主でしたから、街で「中井組の息子やな」とか絡まれても逃げたりしてましたけど、卒業してからは喧嘩しまくり。本当は組長の息子じゃないってバレるのも怖かったし、とにかくなめられちゃいけないと思って暴れまくってました。

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1982年、春の甲子園に明徳義塾が出場、応援団長を務めた

――中学や高校の友人、あるいは恋人とかに、悩み相談というか、ご自身の出自について話したりはしなかったんですか?

しなかったですね。というか、できなかった。地元を中井組が統一していたならまだしも、当時は中井組の一和会と、敵対する豪友会とが激しい抗争をしていた時期で。別の県では組長の息子っていうだけで殺される事件があったりしたんですよ。

そういうのもあって、父親が中井組の組長ではないって知ったあと、もう俺は関係ない、これからは暴れまくってやるってなったんです。

――ちなみに、喧嘩ってどのくらいのペースでやるんですか?

ほとんど毎日ですね。