東西で葬送儀礼の差が生まれたのは明治維新

1991年にヒットした『アホ・バカ分布図』(アホ/バカの境界線を探る『探偵!ナイトスクープ』(朝日放送)発の企画)のような東西の差は、令和になっても人間が避けては通れない死に関して残っていた。東西で葬送儀礼が異なる理由は、明治維新まで遡る。

「江戸時代、都市部は火葬が主流です。人口が多く土地が狭い、また衛生上の問題からですが、全国的に見れば土葬の地方もあり混在していましたが、明治政府が神道の国教化を目指したことで葬儀も神道式になり、全国で100%土葬になりました。

ところが、土葬はお墓の規模が大きい。武家屋敷を墓地にしても土地不足に陥ったため、なし崩し的に火葬に戻り、コンパクトなお墓が作られるようになりました。成り立ちから考えると、関西の部分拾骨の方が理に適っているでしょう」(前出・鵜飼さん)

火葬後の残骨灰を売却すると1億円超!? 東西で異なる拾骨事情が浮き彫りにした、減りゆく死との接点_1
全部拾骨と部分拾骨は、東日本と西日本の境目となるフォッサマグナあたりになる。引用:『火葬後拾骨の東と西』(日本葬送文化学会編/日本経済評論社)
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火葬後の残骨灰を売却すると1億円超!? 東西で異なる拾骨事情が浮き彫りにした、減りゆく死との接点_2
境目では混在。富山県は火葬場ではなくお盆に拾骨する、地域独自の文化がある。引用:『火葬後拾骨の東と西』(日本葬送文化学会編/日本経済評論社)

関西のほうが合理的なのは、県民性もあるのだろうか。だが、ここでハッとしたのが、限られた身内が立ち会う火葬場の文化差は、当事者にならなければ気づけないということだ。

日本と世界のメモリアル事情に精通する、日本葬送文化学会の会長という専門家である長江曜子さんに、遺族感情の複雑さを聞いた。