トイレも食事も入浴も、ひとりでは出来ない日々
痺れが段々痛みに変わって、動きもどんどん鈍くなっていくのがわかった。このまま左半身が消えてしまうんじゃないかと心配になった。
いつ退院出来るのか? 医者は自信を持って何かしらの措置を講じてくれるのか? 日に日に不安が膨らんでいった。
もう俳優になる夢は叶わないだろう。そんなことはどうでもよかった。明日の朝は起き上がれないかもしれない。産まれたばかりの姪を抱けないかもしれない。家族が私の介護のために、自分たちの夢までも諦めるかもしれない。
不幸中の幸いだったのは、大阪の実家近くに有名な脳神経外科病院があり、そこで手術を受けられるようになったこと。
お世話になったお店の従業員にも、一緒に苦楽を乗り越えた同期の団員たちにも、一言のお別れも伝えられないまま、私は手術を受けるために帰阪することになった。
手術は無事に成功したものの、左半身に感覚麻痺の後遺症が残った。術後しばらくは、座ろうとすると左側に身体が倒れてしまい、自力で立つこともできなかった。
トイレも食事も入浴も、なにひとつ一人では出来なかった。
「運動神経の部分は傷つけずに済んだから、一生懸命リハビリを頑張ればよくなるからね」
執刀医の言葉は、なんの気休めにもならなかった。こんなことなら、俳優になろうなんて無謀な挑戦をしなければよかった。東京に行かなければよかった。
一番悔しいのは、海綿状血管腫の明確な発症原因がわからないことだった。
“どこから間違えた? なぜ私が?”
毎日そんなことを考えては泣き、もう誰とも交流したくなかった私は、家族と執刀医以外とは一切口もきかないようになった。
そんなある日、SNSのダイレクトメールを通して、村本さんから連絡があった。
「まだ、東京?」