“エリート”がなぜマネージャーに?
西條は群馬・桜木中時代は得点の大半を叩き出すほど絶対的な存在で、3年生の全国大会ではチームのベスト16の原動力となった。能代工への進学を決めたのは、練習会に参加したところを加藤の目に留まったからだった。
だが皮肉なことに、中学時代の成功体験が西條を苦しめた。レベルの高い能代工では、ひとつのミスが命取りになる。中学ではお山の大将だったが故に、シュートを外しても「そんなこともある」と流せたが、畑山や斎藤直樹ら同じガードの選手が結果を残すと、「このままじゃ使ってもらえない」と不安に陥る。西條は完全に萎縮していた。
「中学までが自由過ぎたんで(笑)。ワンプレーの重みをそこまで意識できていなかったんですけど、高校では畑山とかすごい奴らが多くて、力を発揮できませんでした」
1年の新人戦でもメンバーに入っていた西條は、2年生になる直前の3月にマネージャーを打診された。他にも候補者たちが「絶対に嫌だ」と固辞するなか、西條を取り巻く環境だけが少しずつ変わっていった。
まずは96年春に部長として赴任してきた安保から「マネージャーをやらないか?」と提案された。「僕はそういうつもりで群馬から来たわけじゃないんで」と断ったが、今度はクラスの担任からも「マネージャーやるんだって」と言われる。はては下宿の女将や近所のスーパーの店員にまで話が回っているほどだった。
学校側の周到な根回しは、試合の日も同じだった。西條はサポートメンバーとして帯同させられ、監督の加藤と行動を共にする機会が増えた。
すると西條のなかに徐々に「教師になりたい」という志が芽生え、「だったら、先生の近くで勉強するのはありだな」と思うようになった。なによりチームメート、特に畑山からの頼みは、どうしても断ることができなかった。
「自分は畑山をリスペクトしていたんです。マネージャーを頼まれたときは正直、複雑でしたけど『お前に言われたらやるしかねぇか』って。前向きなあいつが伸び伸びできるなら、自分が怒られ役になってもいいって思えたんですね」
2年生の秋。国体が終わると、西條は自ら加藤に「マネージャーをやります」と告げた。