“桜木花道のような”3年生・田中学
「縁の下の力持ち」であるマネージャーが能代工の伝統であるように、チーム力を高める上で加藤は6番目の選手――つまり、リザーブも重要視していた。
田臥勇太や若月徹、菊地のゴールデンルーキーを入学早々からスタメン起用できた背景も、実はそこにあるのだと加藤が言う。
「経験があって、努力してきた上級生が6番目、7番目の選手として控えてくれているからこそ、下級生は思い切りやれるんです。そういった意味では、もし、1年生の田臥たちがリザーブだったら、上級生に何かあった時の代役は彼らでは務まりませんでした」
当時、3年生の控え選手の代表は、ゴール下を主戦場とするパワーフォワードでキャプテンの田中学だった。同じポジションである1年生の若月と交代で出場すると、コートを縦横無尽に走り、リバウンドを取る。それが田中の役割であり、もっと言えばそれしかできなかった。
なにせ田中は、中学時代は野球部出身。本格的にバスケットボールを始めたのは高校からだったため、精鋭が集まる能代工において実力不足は否めなかった。
田中が能代工でバスケットボールに挑戦する決意をしたのは、琴丘中の先輩で、91年に中学3冠を達成した小納真樹、真良の双子と大場清悦を育てた鎌田義人に勧められたから、と言われている。当時から身長が180センチを超え、身体能力が高かったこともあり、本人も「バスケットボールで日本一になりたい」と意欲を燃やしていたそうだ。
田臥「学さんがいたから思いっきりできた」
素人同然の田中が、名門でユニフォームを勝ち得た理由。それは彼が努力の塊であり、リーダーシップも備わっていたからだ。
金原が懐かしむ。
「『自分は素人だ』って自覚があったんで、同級生、後輩問わず積極的に教わりにいっていました。学は本当に人当たりがよくて責任感が強いから周りに自然と人が集まっていて。正直、バスケは下手でしたけど(笑)、そこをバカにする奴はひとりもいませんでしたね」
その資質を加藤もしっかりと見抜いており、「田中以外にキャプテンはいない」と、迷わず任命したほどである。
能代工ではキャプテンが背番号4を付けるケースがほとんどで、田中もそうだった。
「中学の時は野球部で『3C(3番・センター)田中くん』、能代では『4C(4番・キャプテン)田中くん』ですね(笑)」
陽気で人懐っこい畑山陽一ら下級生から茶化される。田中は後輩のノリに付き合い、じゃれ合った。そして、試合になれば2年生レギュラーの畑山や小嶋を信頼し、「俺はリバウンドを取って走ることしかできないから、お前たちが1年生を引っ張ってやるんだぞ」と背中を押せる、器の大きな人間だった。
高校に入学して間もない田臥も、田中の温かな人間味に救われたという。
「僕ら1年生が試合とかで失敗しても、『大丈夫、大丈夫。怒られるのは俺たちの役目だから、次、頑張れ!』って励ましてくださったり、本当に面倒見がよくて。学さんがいたから思いっきりプレーできたというのはありました」