主要キャラが、世界の片方にしかいない

『すずめ』は、不均等についての物語です。ある人とある人のあいだには、乗り越えることのできない差があるということについての話です。これは、死者の蘇りがある『君の名は。』や、個人が世界のかたちを変えてしまう『天気の子』にはなかった感覚です。

これまでの新海誠作品には、宇宙的な孤独を描く傾向がありました。『ほしのこえ』が象徴的ですが、恋人たちは宇宙の果てと果てに引き裂かれます。最も近くにいてほしい人が、最も遠くにいて、手が届かないのです。

ただし、過去の新海作品は、それを単純な孤独ではなく、引き裂かれた2人のユニゾンというかたちで描いてきました。新海作品においては、遠くに離れていた二人が、まるで量子テレポーテーションのように、同じ思いを抱え、同じ言葉を発します。

結果として、新海作品を観る経験は、途方もなく広い宇宙に、自分自身の声が響き渡るような感覚を与えます。その圧倒的なスケールの孤独感がもたらすカタルシスも、かつての新海作品の大きな魅力です。

『すずめ』は、そうした過去の作品とは違います。死者たちを、自分たちとは完全なる別物にするのです。アニメーションは思いをかたちにして見せることができるメディアですが、『すずめ』は、かたちにできない世界があることを明確に認識します。

想起の領域以外に登場しない(三葉のように受肉化しない)母親の存在が、間違いなくそうです。いくら泣いても叫んでも、まるで無響室の壁に声をぶつけたときのように何も返答のない領域が、『すずめ』にはあるのです。

今までの新海作品は、宇宙の両極、つまり最も離れた場所に主人公たちがいました。一方で『すずめ』は、すずめと草太という双極的な主人公たちは、生者の世界の側にしかいません。

草太は死者の世界に入り込みそうになりますが、向こう側まではいかない。新海作品史上初めて、主要キャラたちは世界の片方にしかいないのです。踏み入れることのできない領分があるのです。