母親は決して返事をしない
『君の名は。』と『すずめ』は、災害の犠牲者たちの居場所(そしてそれに対するメインキャラたちの立ち位置)の違いによって好対照となる二作品であるといえます。
『君の名は。』において犠牲者たちは蘇りますが、『すずめ』において犠牲者たちは蘇りません。『君の名は。』は犠牲者たちの呼びかけに反応し、過去と現在、生と死のあいだを行き来しますが、『すずめ』において生者は死者の空間に足を踏み入れはするものの、死者側のほうからは何も呼びかけてはきません。沈黙を貫くままです。こちらから呼びかけても決して何も応えてくれない死者たちの立ち位置こそ、本作の肝です。
すずめの母親が、なによりも象徴的です。本作の冒頭は、すずめが常世(死者の世界)で母親と出会うことを予想させるかたちで始まります。すずめと共に旅する椅子は、母親がすずめに対してあげた最期の誕生日プレゼントでした。
旅のなかでは、母親の記憶が蘇ります。しかし最終的に、すずめが常世で出会うのは(お母さんを亡くしたばかりの幼いすずめが出会っていたのは)、成長した自分自身だったことがわかります。旅を終えても、すずめの母親はわずかな想起のシーン以外、姿を表しません。
思い出が新たに蘇ったりもしません。すずめがいくら泣き叫んでも、高校生になったすずめがいくら涙を流しても、です。
こんなふうにして、『すずめ』は、生者と死者のあいだに、はっきりとした線引きをするのです。
私自身は、『君の名は。』を初めて観たとき、途中までは、(今回の『すずめ』のような)死者を死者たらしめる物語を語るのだと思っていました。三葉が死者であることがわかり、彗星が落ちて立入禁止になっている町の残骸が映ったとき、この作品はなんてとんでもないことをするのだ、と驚いたことを思い出します。
東宝とタッグを組んだ新海誠史上最大級(当時)の作品において、死者の経験を追体験させる物語を描いてしまうのか、と。ただしそれは早合点で、『君の名は。』は死者たちが蘇る奇跡を描くことを選んだわけですが。
一方、『すずめ』は、生者と死者のあいだに、決して超えることのできない大きな壁があることをつきつけます。死者は決して再び姿を現すことはありません。『君の名は。』の三葉のように生者と体を共有したり、復活して再び動き出すことはなく、過去の回想を再生することでしか現れないのです。
数々の死者・廃墟は、後ろ戸が閉じられ、成仏させられるとき、ただ単に草太とすずめに「思い出される」もしくは「想像される」にすぎません。実体を持つことはないのです。コミュニケーションさえも取れません。ただただ一方的に、思い出されるだけなのです。
すずめの母親についても同じです。かつての被災地で扉が閉められるとき、あの大震災の無数の被災者たちの、この日が最期になるなんて思いもしなかった、あのいつもと変わらない一日の始まりが、思い出されるにすぎません。この展開は、本当にすごいと思いました。本当に、禁欲的に、「想像」の範疇にとどめるのです。
死者に対するこの距離感は、とてもリアルな形で描かれていると感じました。実は筆者自身も小さなころに母親を亡くしており(すずめに比べるとだいぶ成長してからでしたし、震災とまったく関係ないですが)、最期の瞬間に立ち会うこともできませんでした。
本当に何度も何度も、最期の日のことを想像しました。それはやはり想像でしかないという圧倒的な無力感がつきまといます。『すずめ』における死者との距離感は、本当にリアルに感じました。
『すずめ』は新海誠にとってもおそらく最大規模の作品になっているはずですが、この規模で作られる作品が、死というもののあり方について、単純なお涙頂戴ではあく、こんなにも切実な描写をしたことに対して、最大限の称賛を贈りたい気持ちです。