『すずめの戸締まり』は何を映像化するのか――映り込む原発

死者たちだけではありません。生者であっても、世界を共有しない人たちがいることを、『すずめ』は描きます。

本作は映画公開に先立って、新海誠本人が執筆した小説版が出版されています。基本的な筋書きは変わっていませんから、映画版を観る前に、震災が描かれることは知っていました。読むときには当然、本作がどんなふうに映像化されるのかを想像しました。

ミミズとの戦いはこれまた新海作品史上最もダイナミックでスケールの大きなものになることがわかっていましたから、今までよりも予算がかかりそうだな……だとか雑念を持って読んでいました。

『すずめ』を観たとき、「これが映像化されるのか」と最も衝撃を受けたのは、その戦いのシーンではなく(エヴァの使徒との戦いを思い出すような戦闘で、壮大で良かったですが)、新海誠の代名詞のひとつである、美麗な背景に対してでした。被災地の今が、「美しく」描かれるのです。

草太の親友の芹澤の運転で向かう被災地の旅の途中、地震を感じ、すずめは芹澤に車を止めるよう言います。扉が開いてしまっている場所があるのではないか、ミミズがいるのではないか、と考えたからです。

画面の情報から判断すると、その場所は福島県の双葉町近辺です。『すずめ』は、廃墟を探し、悼む物語ですが、そこでは町全体が廃墟になっています。廃墟と地震が合わさる場所には必ずミミズがいた本作において、ここにはいません。この展開にも震えました。

ここではただ単に、地震が起こっているのです。『すずめ』は、ここにおいて現実とシンクロします。原発事故の影響で住むことができなくなり、今でも小さな地震に見舞われる場所は、今現在、リアルタイムで、私達の現実に存在しているからです。

すずめと芹澤は、丘の上から自然に覆われたその町の風景を眺めます。誰もいなくなった廃墟の町と海を眺めたとき、芹澤は「このへんって、こんなに綺麗な場所だったんだな」と語ります。

それに対して、双葉市の住人ではないですが東日本大震災の被災者であるすずめは、これのどこがきれいなのか、と呟くようにして反発します。すると、カメラが動き、今まで見えていなかった福島第一原発の姿が遠くにぼんやりと映り込むのです。

このシーンにおいて、実景を美しく描くことに執念を燃やしてきた新海誠は、その美しさが孕む両義性に意識的になっています。誰かにとっての悲劇の地が、他の誰かにとっての美しさとして映りうるということ。その皮肉自体は、『君の名は。』でも語られていたものではありました。

しかし、災害を忘却していた瀧を主人公としていたその作品においては、その部分はアイロニカルな印象よりもむしろ陶酔の気持ちをもたらしていました。

『すずめ』は、そんな『君の名は。』をも相対化します。芹澤の声優を、神木隆之介が担当しているのです。言うまでもなく、『君の名は。』で瀧を演じていた俳優です。すずめは、『君の名は。』を象徴するようなその視点に対して、「当事者」として、批判を向けるわけです。

ここで本作には、生と死に加えて、もうひとつの不均等が生まれます。想像できる人と、想像できない人。思い出せる人と、思い出せない人です。その後のシーンで延々と映される防波堤の存在は、まさに本作が描くこの「不均等」の話を象徴的に語っているようにも思いました。

見えることと、見えないこと。生きていることと、そうでないこと。そのあいだには、不条理にも思えるような、大きな壁が立ちはだかっているのです。