ここに私がいる、ほかに何もいらない

当時、私は、身の回りのものをほとんど処分した。無欲なジョブズの師、弘文さんじゃないけれど、自分にまつわるものなど何もいらないと思ったのだ。副作用で髪がごそっと抜けた時には、自分の手で頭を丸坊主にさえした。

ここに私がいる、ほかにもう何もいらない──。

緊急入院から2年、ようやく治療に光が見え始めた頃、舞台のお話をいただいた。丸坊主にした髪はまだ短く、副作用で顔はまん丸だったが懸命に練習して出演した。こんな私でも少しは役に立てるのかと思うと、生きていることが愛しかった。

それでも、病魔は容易に私から去りはしなかった。骨粗しょう症による骨折もしたし、腎臓癌も患った。数年前には、肝臓の特効薬の副作用で半年間の療養を余儀なくされた。いずれは心臓手術をする必要があると、医師からは言い渡されている。

自分でも、よう生きてるわと思う。この苦から逃れられるなら、死んだほうがマシと幾度考えたことか。けれども、生きているということは、やはり何か意味があるのだ。寿命がくれば、人は必然的に死ぬ。それまではこの世の修行と、私は思う。

『宿無し弘文』によれば、仏教には「転依(てんね)」という言葉があるらしい。「転依」=人格の根本転回。修行により悟りを開き、人格がひっくり返り、それまで気づかなかった新しいモノの見方ができるようになることを「転依」というのだそうだ。ジョブズは一種の「転依」を果たしたと、著者は書く。

自分が「転依」などという大それた体験をしたとも思わないが、病を経た私が、世界に対して別の見方をするようになったのは確かだ。第一、死がまったく怖くなくなった。自分と他人を較べたり、自らを飾り立てることもなくなった。自分のためではなく、なるべく人のために生きたいと、どこかで願うようになった。