在日コリアンは北に行くしかなかった
内田 お話の中で興味深いのは、お母さんが大韓民国政府を嫌っていたということでした。帰国事業において、南出身の人たちはあえて北を選んだ。李承晩政権時代(1948年 - 1960年)、韓国政府は在日コリアンに対して棄民政策を行っていた。
一方で、在日コリアンは心無い日本人たちから「国へ帰れ」と言われてきた。だから、押し出されるようにして彼らは北へ向かうしかなかった。敗戦後の日本における在日コリアンは祖国からも、日本からも見捨てられた存在だったわけです。
その歴史的背景を知らないと、ヤン監督のお母さんが抱いていたような在日コリアンの韓国政府に対する不信感を僕たちは理解することができないでしょう。
ヤン そうですね。ところが、韓国を嫌いと言っていた母親が、2009年に父が亡くなった後、少しずつ私を映画監督として認め始めたのか、「オモニのことを映画にするか?」と言って、事件の話を始めたんです。4・3事件当時の恐ろしい記憶や、当時そこに婚約者がいたこと、そして弟と妹を連れて密航船に乗って逃げてきたということを、ものすごく具体的に話し始めました。
それから証言を撮ろうとしましたが、やはり心の奥の奥に追いやった思い出を呼び起こすのが母もしんどそうで、少しずつしか聞き出せませんでした。話し出すともっと吐き出したくなるようで、そんな風に少しずつ証言を撮っていきました。最初の頃は、これは長編作品には出来ないだろうと思っていました。そこに映画にも登場する、私の婚約者の荒井が家に挨拶に来たんです。
未だに北朝鮮の指導者の肖像画を壁に掲げている、エキセントリックな在日の家にやって来て「娘さんと結婚させてください」と言う日本人に対する母の反応を撮ろうと思いました。そのとき母は鶏のスープを作って歓迎したんです。あの鶏のスープは娘婿が来た時に作るという風習があるそうです。
日本のこともあれだけ毛嫌いしていたのに、どういう心境の変化かと母に聞くと「関係ないやん。好きな人と一緒におったらええねん」と言うんです。はよ言うてえやそれ、みたいな(笑)。総連の婦人会の役員として組織の中で長年着ていた鎧を脱ぎ、一人の母親として、半島と日本の間で生きてきた一人の女性としての言葉が出てきたのです。それを聞いて、これは長編になるかもと思い、意識して撮るようになりました。