「済州島には行った事がない」と話していた母だが……
ヤン 「ディア・ピョンヤン」では父に、「息子たちを北に送ったことを後悔してる?」と聞きました。実はあの質問がしたくて映画を作ったようなものです。残酷な質問だから、十年間ずっと聞けずにいました。
おそらく無視されると思っていたので、無視されている画だけでも撮ろうと思っていたのですが、父は「後悔してなくはない。でも後悔していると言えない立場にいることも分かっている」と言いました。
当時は、朝鮮総連の幹部として、自分たちがやっていることを間違っているとは思っていなかったのでしょう。この様子を発表すると、組織の中での父親の立場が危うくなるとも思いましたが、率直な気持ちを言わせてあげたいとも考えました。
内田 朝鮮総連はヤン監督に「ディア・ピョンヤン」を作ったことに対して謝罪文を要求したそうですね。ヤン監督は謝罪を拒否されて、その後に「愛しきソナ」そして、今回の「スープとイデオロギー」と家族のドキュメンタリー三部作を作られた。
ヤン はい。読者の方々のために「スープとイデオロギー」に連なる済州島4・3事件についてあらためて説明をします。この事件は、半島の南半分での単独選挙に反対する済州島民が1948年4月3日に起こしたハルラ山での武装蜂起に対し、アメリカ軍政下での韓国軍と警察が「武力鎮圧」「赤狩り」の名のもと数年にわたって島民を無差別に拷問し投獄し虐殺した惨劇のことです。遺族の届けがあった犠牲者だけでも1万4千人余り。トータルでは3万人の命が犠牲になったと言われています。
結局1948年5月に単独選挙が決行され、8月に大韓民国が(9月にDPRKが)樹立されます。済州島での虐殺は、大韓民国が建国された後に「焦土化作戦」と言われる惨劇に発展し、さらなる犠牲に拡大します。恐怖の中、島民は当然、“殺人者”たちがやってきた本土を避け、山の洞窟に逃げたり日本に密航します。
そうして多くの人が日本に逃れて来たんです。本来なら政治難民として保護されるべきはずが、日本政府は無慈悲でした。当時18歳だった私の母は、運よく大阪に辿り着きました。
その後、日本では1959年から在日朝鮮人の帰国事業が始まりました。金日成のスピーチに感銘を受け、北朝鮮は地上の楽園だと多くの在日が信じたんです。さらに日本のメディアも北への帰国を促したものだから、私の3人の兄も含めて、多くの人が北に渡ることになりました。
済州島4・3事件については私自身、心の片隅に宿題のように残っていたものがありました。『ディア・ピョンヤン』を作っていたとき、この事件の本を読んでいたのですが、当時は日本生まれの母がそこまでこの事件にコミットしているとは思っていませんた。
父は1942年に済州島から大阪に渡ってきて、それ以降、戻っていないので直接は体験していません。なので、遠い親戚は犠牲になっているかもしれない、ぐらいに思っていました。
父は酔っぱらうと「済州が恋しい」「死んだら済州に埋めてくれ」「統一したら済州に行くんや」と言っていました。母は、「済州島には行った事がない」と言っていたんですが、たまに「ちょっと行った事がある」とか、聞く度に回答が変わるんです。
徐々に「韓国にいい思い出はない」とか「韓国は残酷」とか、父とは対照的に半島の南に対する母の生理的な拒絶反応が凄くなりました。とにかく頭ごなしに嫌韓でした。