僕は1998年から宝島社の雑誌「smart」編集部に在籍し、2000年から2009年まで編集長を務めた。
このキャリアの前半にかかるのが、いわゆる“裏原宿ブーム”である。
1993年にジョニオこと高橋盾とNIGOこと長尾智明が開いた伝説的なショップ・NOWHEREに端を発する裏原宿ブームは、1990年代後半から2000年代前半にかけてが最盛期。
1995年創刊で男性向けストリートファッション誌としては後発だった「smart」は、ヴィンテージデニムやハイテクスニーカーといった、当時のストリートファッションの主流テーマでは先発誌に追いつけないと判断し、早々に新興勢力であった裏原宿ブランドをプッシュするようになる。
そしてムーブメントの拡大に伴い、販売部数を大きく伸ばしていった雑誌だったのだ。

「終わらない文化祭のようだった」Y2Kブームが思い出せるsmartと裏原宿とNIGO氏_2
「smart」1997年10/6号。表紙はBOUNTYHUNTERのHIKARUとモデルのARATA(現・俳優の井浦新)

裏原宿ムーブメントとともに拡大していったストリートファッション誌「smart」

「smart」が裏原宿路線に舵を切るのは、当然の成り行きでもあった。
宝島社の看板雑誌であった「宝島」は、時代の要請に応じて形をコロコロ変えるカメレオンのような雑誌として有名だったが、サブカル色の強かった1980年代、藤原ヒロシと高木完がストリートの最新情報を紹介する連載コーナー「ラストオージー」を持っていた。
そのコーナーでの取材をきっかけに、藤原ヒロシがショーン・ステューシーと懇意になったことが、そもそも裏原宿のスタート地点なのだ。

藤原ヒロシと高木完による「ラストオージー」終了後の1991年、「宝島」で続編にあたる「ラストオージー2」がスタートする。
レディースブランド・MILKを1970年に創業し、原宿が現在のようなおしゃれタウンになるきっかけをつくったキーパーソンの大川ひとみ氏が、「ヒロシくんの友達ですごく面白い子がいる。彼らは必ずビッグになるから」と「宝島」に紹介した2人の名もなき現役専門学校生が、「ラストオージー2」の新しいプレゼンターとなった。
それが、学生時代からすでにアンダーカバーをスタートさせていたジョニオと、ライターやスタイリストとして活動をはじめたばかりのNIGOだった。

「宝島」の路線変更により「ラストオージー2」の連載は1994年からぶんか社のストリート誌「asayan」に移籍、その頃から裏原宿ブームは本格化していくのだが、宝島社と藤原ヒロシ、そしてジョニオとNIGOからはじまった裏原宿ムーブメントは切っても切り離せない因縁めいた関係にあったということが分かるだろう。

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「smart」1999年2/9号。表紙はA BATHING APEのNIGO、スチャダラパー、UAなど

2000年の秋口にそんな「smart」の2代目編集長に就任した僕だったが、実は最初、裏原宿とは少し距離を取ろうと考えていた。
裏原宿ムーブメントは明らかに頂点に達していたので、この先、下り坂に入ることは明らかだった。そうなる前に、次の手を探さなければならないと考えていたのだ。
「smart」の販売部数は絶好調だったので、少し冒険することも許されていた。
だから僕は、表紙にパンクバンドのボーカリストを起用したりして、軸を音楽系に持っていこうと考えた。

「終わらない文化祭のようだった」Y2Kブームが思い出せるsmartと裏原宿とNIGO氏_4
編集長就任直前の「smart」2000年7/24&8/7号。表紙はランシドとHIKARU。HIKARUさんと一緒にLAへ取材に行った思い出の表紙だ