犯罪被害者も、「被害者ではない自分」としての人生を生きていいはず

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亀石 なるほど。そういうことなんですね。

「公共的なものと私的なものというのは一人の人間の中に同時に存在し得る」というのが『バラバラな世界で共に生きる』に出てくるんですけど、ずっと公的な場所で、たとえば被害者としてとか、原告としてい続けるのって本当にしんどいと思うんですよね。

私は、犯罪の被害で大切なお子さんを亡くされたお母さんと交流していて、1年に1回ごはんを食べに行くことにしているんです。

そうすると、会うたびにちょっとずつ、そのお母さんも変わって、もちろん亡くされた息子さんのことをずっと思っているし、息子さんの話になると絶対泣いてしまうんですけど……。

それでも、そのお母さんはお母さんで、自分の人生を生きていて、少しずつ前に進んでいるんです。新しい趣味を見つけて、たとえば「今、推し活をしている」とか言うんですよね。そうやって楽しんだりしているんですが、「時々、こんなふうに楽しんだりしていいのかな、と思っちゃったりするんです」「息子が亡くなっているのに、私、こんな楽しい時間を過ごしたり、笑ったりしていいのかなって時々思っちゃう」と。

だから、「いいんですよ」って私は言うんです。「いいんですよ、そのほうが絶対お子さんも喜んでいるはずです」って。

ずっと「犯罪被害でお子さんを亡くしたお母さん」でい続けなくても、いいんです。自分の人生を生きて、推し活を楽しんで、笑って、おいしいものを食べてほしいと、私は思うわけです。ずっとその立場でい続けるというのは、絶対しんどいですから。

だから、公共と私的なものとが、たぶんお母さんの中にずっとあり続けるんだけど、「どっちでもある」ということが、すごく大事、というか……。

 本当にそうですね。それはすごく大事で、そのためにも私たちも、たとえば、この公共訴訟の方法について、「みんなのために法に働きかけていいんだ」とか、「原告は役回りを引き受けてくれているんだ」というふうに思えたら、当事者を過度に特別視しなくていいと思うんですよね。

「あの人は被害の当事者だから」とかということじゃなくて、「たまたまこういう状況になって、ある意味、私たちみんなを代表してやってくれているんだ」というふうに思えたら、きっと、そのほうがお互いにとっていいように思うんです。

亀石 そうですよね。

 それは公共訴訟から私たちが学べることだと思います。そして、これはちょっと公共訴訟の話と離れてしまいますし、もっとずっと難しいですが、「加害者についても、そうかもしれない」と思うんですよね。

罪を償って社会に帰るということは、もちろんやったことをなかったことにはできないんですけど、その人も日常を送っていいかもしれないし、犯した罪ということは、ずっと残り続けるんだけど、「それだけの存在」じゃなくても、いいかもしれない、と。

司法というときに、古代みたいな「罰するんだ」ということだけでなくて、「私たちの社会で、みんなが何とかやっていくためのルールとか秩序なんだ」と考えたときに、つい私たちが持ちがちな「被害者を特別扱いしてしまう」とか、あるいは「加害者に罰を与えなくては、と思ってしまう」みたいなことから、ちょっとでも自由になるためのチャンスがあるんじゃないかと思うんです。

亀石 刑事司法のことでいうと、たとえば袴田事件(*3)の袴田巌さんのお姉さんの袴田ひで子さんが、再審法改正(*4)の問題とかでも、ずっとテレビに出られたり、街頭集会とか、いろんな場面で見るじゃないですか。93歳なのに全国を飛び回っていらして、もうあちこちで「ひで子さん、ひで子さん」って、すごく引っ張りだこで、国会で議員を前に話をしたり。ひで子さんはすごくお元気で、毎日体操とかをされていて。

 えっ、90歳を超えられてるのに? すごい!

亀石 そう。元気でいるために体操したりとか、発声練習をしたりして。ひで子さんって、おばあちゃんっぽくないんですよね。お話しするときも、すごくしっかり話されるし。ちゃんとしゃべれるように大きい声を出してしゃべる練習をしているらしいです。だけどひで子さんもずっと「公共の存在」というか、公共の役割をすごく担わされ続けていて。

だから私は、ひで子さんが本当に心穏やかに、私的な自分の時間をゆっくり過ごせるように、早くなってほしいなと思います。再審法がちゃんと改正されて。

 まさにそうですね。

亀石 本当に公共の存在であり続ける、公共の場、「バザール」にずっとい続けるって、しんどいだろうなと思います。

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 本当にそうですよね。でも、それは私たちみんなに、ある種、突きつけられていて。つい私たちは「この人、遺族らしくない」とか「被害者っぽくない」などと思ってしまうことがあるので。

それから、たとえば車椅子の当事者が、何かしてもらった際に「感謝していない」とか言われることがあります。私たちの気持ちの話としてそうなりがちなんですけど、司法では、気持ちと違うことで、「どんな人であっても等しく扱われるんだ」というコンセプトが、ちゃんとあるはずなので。

「同情に値する」とか、さっきおっしゃったように「情理を尽くす」ということもあるんですが、私たち市民一人ひとりは、つい情だけに流されやすい面があるので、そういうことにもストップをかけなきゃいけないところがあると思います。

そうやって私たちの言葉遣いを少しずつ訂正しながら、「みんなにとってなるべく生きやすくしていく」ということをやる必要がある、と思うので。

そのためにも、公共訴訟の話はすごく、みんなにとって大事なんだということを改めて思いました。この『はじめての公共訴訟』が、ぜひ多くの人に届いてほしいと改めて思っています。

亀石 ありがとうございます。本当に、この2冊は接続するところがすごくあるんです。私も、新たに気づかされたことや、自分が日々あまり何も考えずに取り組んでいることが実は「こういうことだったのか」と思うところがたくさんあるので、ぜひ2冊、一遍に読んでほしいなと思います。

 そうですね。私もまた、トークイベントをさせていただいたりします。

亀石 はい。朱さんのイベント、すごく面白くて、いろんな方とコラボできるんですよね。クラブ側の酒場でのトークとかもあるし、こういう公共側のことも話せるし、いろんな展開があり得て、面白いんですよ。

 だから、この本を読んだ上で、そういういろんなトークを聞くと、さらに広がりがあって。酒場トークも面白い。

 ありがとうございます。まさにクラブの「暗がり」みたいなことが今、無いことにされがちだったりしますし。

リチャード・ローティという人は2007年に亡くなっているんですけど、彼の死後、何が起こったかというと、トランプ現象もそうなんですが、ソーシャルメディアがこれだけ広がった時代はなかったわけで。

ソーシャルメディアって、まさにそこに体がない状態で、いろんな人の言葉だけが流通してしまう。「そこに相手がいないから書けちゃう」ような、ひどい言葉がたくさん飛び交ってしまって、しかも、それがみんなの目にさらされてしまうわけだから、ある種バザール的な、公共的な正しさで全部ジャッジされるわけですよね。

だから、10年前に書いたつぶやきについて「これは、どうなんだ?」と批判されてしまうとか、みんなの言葉がバザール的な、公共的なものにさらされがちで、そういう意味ではちょっとビクビクしながら言葉を使わなくてはいけなくなった、というのが現代社会のような感じもします。

亀石 確かに。

 だから今、クラブ的な場所をどうやって作って、クラブ的なモードの言葉遣い、さっきの公共モードのバザールからちょっと降りて、自分としてちょっと気を抜いたり、ちょっと危ういかもしれないことも言えたりしてしまうという、そういう場所を作ることが、どんどん難しくなっていると思うんです。

*3 1966年に静岡県清水市で発生した強盗殺人・放火事件。味噌製造会社専務の一家4人が殺害され金品を奪われ、家に放火された。同社従業員だった元ボクサーの袴田巌(はかまた いわお)氏が捜査機関や裁判所から犯人とみなされ死刑判決が確定したが、後に再審で無罪が確定した冤罪事件。30歳で逮捕された袴田氏は、取り調べ中の拷問により自白を強要された。45年以上収監・拘束され、釈放されたときは78歳になっていた。

*4 裁判のやり直しを求める「再審」に関する刑事訴訟法の改正が6月12日、衆議院の法務委員会で可決した。再審を拒否しようとする検察による、根拠のない「機械的抗告」がこれまでは認められてきたため、再審はなかなか行われず、行われる場合も、再審開始まで何年もかかったが、改正案では再審審理を迅速化するため、検察官の不服申し立てを原則禁止に。裁判所が当事者の請求を受け、検察に証拠の開示命令を出すことも義務化した。ただし、まだいくつかの重要な不備をはらんでおり、冤罪事件で苦しめられた袴田巌氏の姉・ひで子さんは、「50%だけ進んだ」と感想を述べている。