罪を犯した人に「罰を与える」だけでなく「いかに再犯を防ぐか」「更生させるか」も大事
朱 しかし、何のために司法ってあるんだろうと思います。特に刑事司法。「罪に対して、罰を与える」という発想があったわけですけど、今、司法の世界でも、その議論はだいぶ変わりつつありますよね。
亀石 はい、そうですね。
朱 昔の、それこそ古代のハンムラビ法典の「目には目を、歯には歯を」みたいな、いわゆる「応報的正義」とか「応報的司法」という「やったことに対し、同じことをやりかえす形で償わせる」みたいな発想、つまり「罰としての司法」という発想がかつてあったわけですけど。
亀石 でも、「罰を与える」だけでは、すまないですからね。やっぱり、更生のための部分も大事で。
朱 まさにそこですよね。これが1970年代とかから芽生えてきた、いわゆる「修復的司法」という考え方で。「正義」という言葉がありますが、「司法」は英語でjustice、ジャスティス、「正義」と同じ言葉だ、という話をしましたが、「司法とは、ジャスティスとは何だ?」というときに、単に「罰を与える」ということじゃなくて、元に戻るわけではないんだけれども、どうやって、せめてバランスを取っていって、また日常に帰っていくことができるようにするか。起きた事件をなかったことには、できないけれども……。
亀石 そうですね。それと、再犯防止ですよね。社会のためには、「どうしたら、こういう犯罪を減らしていけるか」「どうしたら、この人がもう犯罪をしないでいられるか」ということも考えていかなくてはいけないし。
罪を犯して服役した人も、無期刑や死刑以外、いつかは刑期を終えて社会に戻るわけですから、「この人が更生して社会に戻るために、どうしたらいいか」を考える必要があります。だから「罰を与えるだけではない」という発想も大事です。
朱 そこですよね。逆に、被害者目線に立ったときに、「修復的司法」というのは、ある種、「和解」とか「修復」を目指す、という司法のプロセスですから、それだけを聞くと、「なんで被害者が加害者を許さなきゃいけないんだ?」と思ってしまうこともあり得ます。でも、これは非常に大事な話で。
さっきおっしゃったように、「被告」もそうですが、「被害者」とか「当事者」というふうに呼ばれている人が、未来永劫その立場に置かれなきゃいけないわけではないですよね。
亀石 確かに。
朱 本当は、司法の場を離れれば、いつまでも「原告」である必要はないわけですし、そうやってその人に、「被害者らしくない」とか「原告らしく振る舞っていない」というような非難が行われたりすることがありますが、そういう状態はよくないわけであって。
「修復的司法」には、「どうやって被害者が被害者でなくなれるのか」という話も含まれているんだと思うと、本当に深いというか、大事なコンセプトだと私は思うんです。
それはやっぱり公共訴訟、それが一番分かりやすいというか、大事な例だと思います。
公共訴訟の原告が訴えているのは、「私は大変な目に遭っている、私は被害者だ、私を特別扱いしなさい」ということじゃ全くなくて、タトゥーの彫り師の方とか、クラブもそうですし、あるいはコロナ禍の持続化給付金をもらえない話もそうですけど、「普通に扱ってくれ」と言っているだけです。
「なんで私は、この私であるだけで、あるいはこういう仕事をしているだけで、みんなと同じように扱ってもらえないんですか?」ということを言っていて、それを是正するために原告として名のりを上げているんで。
目指しているゴールは「普通の人として扱ってください」ということだと思うんですよね。そこで「被害者じゃなくなれる、当事者じゃなくなれる」、つまり「普通の人になれる」ということが、ゴールとして目指されているわけで。
だからこそ、「一部の少数者のためだけでなく、普通の人、みんな、マジョリティーのための訴訟でもあるんだ」というのが、公共訴訟のすごく大事な役割だと思います。
ですから、「修復的司法」のコンセプトは、一見、「加害者を許す」ことのように見えて、「そんなことは許せない」と思うかもしれませんが、逆からすれば、被害者がいつまでもそこにとらわれなくてもいいし、もちろん、自分の選択で、とらわれてもいいし、こだわってもいい。「だけど、日常に帰ってもいいんだ」ということが入っている、ということが、すごく大事なメッセージで。
こうした新しい司法観が、公共訴訟には象徴的に表れている、と思いました。
これは、実は思想的にも大きな意味があって。政治哲学とか、哲学の観点からも、非常に興味深いことをやっている、というのが、私自身がこれだけ公共訴訟に関心を持っている理由のひとつなんです。














