「私」と「公共」をつなぐ回路
亀石 朱さんのこの『バラバラな世界で共に生きる』、略して『バラ生き』を読むと、公共の場である市場「バザール」と私的な場である「クラブ」という話が出てきますよね。私がかかわっている公共訴訟、法廷って、これに照らすと、まさにバザールですよね。
朱 公共ですからね。
亀石 はい。大阪に住んで26年の私にとって、たとえるなら東京は「バザール」、「クラブ」は大阪なんですよ。大阪だったら本当のことを言える感じ(*亀石氏は北海道小樽出身)。
朱 私にとっても似た感じがあります。今日は「クラブ」である大阪での開催ということで、東京ではあまり話さない「本当のこと」をしゃべりますか(笑)?
亀石 はい。本当のことを話そうと(笑)。
朱 今、「バザールとクラブ」ということを挙げていただきました。私の本『バラ生き』で紹介したリチャード・ローティ(*1)という哲学者が、公共的、パブリックなものと、プライベート、私的なものを区別するときに、公共の市場みたいな場所「バザール」と、会員制クラブみたいにプライベートな「クラブ」というふうに、どっちもお店的なメタファーで「公共」と「私」を語るんですね。これはちょっと変わった区分なんです。
で、この『はじめての公共訴訟』という本。タイトルの通りまさに「公共」の話だから、ご依頼いただいて二つ返事で帯文(*2)を寄せさせていただき、書評も書かせていただいたんです。
私が寄せたのはこんな言葉です。
「よりマシな社会をあきらめたくないすべての人へ。
ここに私と公共をつなぐ回路がある。」
まさに私と公共、ローティの言葉でいう「クラブ」と「バザール」をつなぐ役割を持つのが公共訴訟なんだと、改めて思ったんですね。これはすごく大事な論点で。そこからぜひ話を始めてみたいです。
公共訴訟とか、いわゆる裁判って、「完全に公共的なもの」「公のもの」に関わるんだと思われがちですよね。特に公共訴訟というと公のものに見えるんだけど、実は公共訴訟、つまり、国とか自治体とか大企業も含めて、何らかの意味で公な、パブリックな存在、個人を超えた存在に何か問題がある場合、それで訴訟を起こすには、誰か個人が原告にならなきゃいけないんですよね。
亀石 そうですね。
朱 不利益を被った誰かが、当事者として、個人が「私」として原告にならなければならなくて、「私」がちゃんと「公共の中にいないことにされている」「存在しないことにされている」「それはおかしいんじゃないか、ここにいますよ」ということをやらなくてはいけない。そういう形で「私」と「公」をつなぎなおす回路が公共訴訟なんじゃないかな、とこの本を読んで腑に落ちて、この帯文を書いてみたんです。
亀石 ありがとうございます。
朱 亀石さんから御覧になって「私と公共をつなぐ」ということはどんなふうにお思いですか。
亀石 まさに日本では、「この制度がおかしい」「この法律がおかしい」「そのせいでこんなひどい目に遭っている」というときに、「制度や法律を抽象的に訴える」ことってできないんですよね。「その制度や法律のせいで、私はこんなに困っています」という個人を原告に立てないと、訴訟ができない。
だから、私たちが取り組んでいる全ての公共訴訟には「原告」という人がいるんですよ。たとえば、この本に帯文(*2)を書いてくださったNO YOUTH NO JAPAN創設者の能條桃子さんは選挙の「立候補年齢引下げのための訴訟」の原告になってくださっています。
そういうふうに、ある個人が自分の私的に困っていること、本当に目の前の困りごとが、実は「この法律のせいだった」「この制度のせいだった」というところで公共訴訟という形で国を訴えて、公共に訴えていくという。まさに朱さんが書いてくれた、「私と公共をつなぐ」という役割を果たしてくれているんですよね。
その声を上げたときは本当に自分事だったりするんですけど、声を上げて、それが報道されて、公共訴訟という形になっていくと、どんどんその人が「公共の存在」になっていくといいますか。「私」から出発するんだけど、すごく使命感とか責任感とかが増していって、この法律や制度の影響を受ける大勢の人を代表している存在であることを自覚する、というような感じで、使命がどんどん強くなっていく、変わっていく、というのは目の当たりにすることがありますね。
*1 1931年生まれ―2007年没。アメリカの哲学者で、真理の客観的基準を否定し、言語や社会的合意の中で知識や価値が形成されると説いたネオ・プラグマティズムの代表的人物。
*2 「少数の痛みは、『大したことない』にされやすい。『こうなってほしい』が、感情の問題と一瞥される。公共訴訟はそんな社会の扉をこじ開ける、希望。」














