「正規ルート」も「就職氷河期世代の地獄・悲哀」も経験せず
結果として僕は、模試で志望校のB判定が出た時点で受験勉強を完全に投げ出し、四の五の言い訳をつけて大学進学を拒否り、作文レベルの短い小論文と金だけ払えば入学できる専門学校に入学。期せずして今も物書きとしての柱となっている恩師との出会いという僥倖には恵まれたのだったが、だったが、やっぱりたった2年で第二の詰みに直面した。
いわんや就職活動をや、である。
1973年生まれ、バブルのぬるま湯が残る中で始まった氷河期黎明だが、そもそも「卒業が近づいたら就活する」という流れにもまた、僕は従うことができなかった。自由極まりない校風で、放課後熱心に就職指導室に通ったり空いた教室でエントリーシートと格闘している学生と、「俺は就職&リーマン(サラリーマン)みたいなパンピー(一般人)側ではない」みたいな舐めプ勢が両存する専門学校だった。僕はもちろん後者だったし、やおらバイト経験だけは豊かだったから「食えなくなることはない」という舐めも根底にあったと思う。
結果、卒業間近にバイク事故で足を折ったりもして、僕は就職しないまま卒業を迎え、実はその後もエントリーシートと面接を経て正社員になるという「正規雇用ルート」を一度も経験しないままに、現在を迎えている。
つまり、ある意味僕はこの性格と行動のおかげで「就職氷河期世代の地獄・悲哀」という世代の共通体験すら共有しなかった(できなかった)とも言える。
ブラック企業を「ポジ転換」できた理由
ではいよいよ、実際に就労して食っていく中ではどうだったか? 思えばこの性格が出版業界の末端としてはネガとポジの両方に作用したからこそ、現在も物書きとして僕は生き残っているとも言える。が、特に集団の中で働いて生きていく中では、どうしてもこの性格ゆえに詰むというシーンはいくつもあった。
ちなみにこの専門学校卒業の20歳から文筆業専業として独立する27歳まで、僕は半ばねじ込むように入った非正規雇用の編集プロダクション勤め(主にバイク専門誌を作っていた)を数か所と、その実務の中で得た縁故から繋がった3年ほどの編プロ正規雇用(人生唯一の正規)という職歴を経ている。
が、出版業界の末端という一般企業とは比較にならないほど緩い業界とはいえ会社組織に勤める中で鬼門だったのは、またもや学生時代同様、毎朝の電車通勤ができないことや、同じルートで同じ場所に同じ時間に向かうことを「奴隷にされたように不自由に感じてしまう」という性格、特性だった。
だが前述したように、実はここで、この性格ゆえの「ポジ」が拮抗した。
例えば電車通学・通勤の困難について。高校時代は自転車通学、専門学校から編プロ勤めにかけてはバイク移動で難をしのいでいた僕だったが、ほぼ通年、小雪程度ならバイクで通勤ということは、当時の編プロには必須だったバイク便(版元や印刷所・デザイン事務所等とのやり取り)代わりとして駆け出しから戦力になれたということでもあった。
また、当時の編プロとは絵に描いたようなブラック労働の場であり、会社の床や椅子の上で寝て何日も帰らない業務が日常的。そんな中で多くの先輩や同僚がメンタルを壊して去っていく中、僕はむしろ「通勤しない方が楽」なのだ。昼夜ぶっ通しで仕事をする中、夜中にシャワーを浴びて服を取るためだけに帰宅して朝焼け見ながら帰社することが、僕にとってはブラックでもハードでもなく、「フリー」だった。
しかも私生活をゼロにして会社に住むほどの就労環境であれば、短期間で実務が徹底して身につく。おかげで初めの編プロの時点で、企画・取材・執筆・撮影から、手書きのレイアウト指定(その後のデジタル組版)、印刷の元となる版下原稿の作成や製版フィルム上での切貼り修正といった、雑誌企画の頭から印刷物を刷る直前工程までを嫌でも習得することができた(考えたらそのせいでブラック企業被害者とも感覚共有ができないわけだが……)。
雑談力皆無で大人の事情が呑み込めず、徐々に干されるように
一方、ネガの面としてはまあ言うまでもないのが、取引先担当との雑談だ。
すでに取引のある相手なら、納期と予算内で成果物を作るという共通目標があるので話には困らないが、新規顧客への営業となると、「世間の話題力」が皆無なおかげで、切り口もなければ場ももたない。偶然たしなむ趣味の共通点から関係性の構築ができたケースも稀にあるが、その背後には膨大な「気まずい沈黙」があった。あれは今でもちょっとしたトラウマだ。
また雑誌作りの中では、広告の出稿主の利害や外部の広告代理店、内部の広告部との対立が強いネガになった。編集や書き手としては、良い物を選んで読者に伝えたいが、スポンサーや代理店は当然、「良い物ではなく売りたいものを良く書け・扱え」である。そしてその多くは、「流行っているもの・流行らそうとしているもの」だ。僕が何より毛嫌いしていた、アレだ。
「大人なら呑み込める」ことなのだろう。けれどモノづくりをする上でのその束縛感、作り手の自由の剥奪感は、当時の僕にとって耐え難いものであり、酒を飲めば必ず「いつか完全に無広告のバイク雑誌をコンビニの売り場にぶち込んでやる」などと語っていた。当然そんな訳のわからない(危険な)部員を雇いたい編集部なんかないわけで、必然的に僕は干されていった。














