「いつかよくなる」と信じていた認知症初期
きっかけは母親が50代のときの脳腫瘍だった。手術は成功したが、近所に住む知人の家がわからなくなったり、話が噛み合わず周囲から心配されたりするようになった。
東京で働いていた当時20代の田中さんは、ちょうど帰郷を考えていたこともあり、母親と暮らすことを決める。後に医師からは脳血管性認知症とアルツハイマー型認知症の混合型ではないかと指摘される。
「若いので誰も認知症とは思わなくて、高次脳機能障害とか手術の後遺症なのかなと思ったんです。だから一緒に生活するうちにいずれ元に戻ると思っていました。
体は元気ですし、見た目は普通の50代の女性なので。食生活を見直したり脳トレをさせたり、本に書いてあることを全部やってみるような感じで」(田中さん、以下同)
それまでパートタイムで家計を助け、家事をこなしてきた母親。若い頃から病気がちだったが、「もし生まれ変わったら次は健康な体で生まれてくる。そのためにこの体の中にある病気を、今の人生で全部出し切って闘うから」と前向きに体調管理をしてきた。しかし認知症発症後、徐々に計算ができなくなったり、数分前に話したことを忘れてしまうようになった。
「物忘れが始まって、すごく不安そうにしていました。『認知症になりたくない』とよく泣いていました。進行するにつれ、好きだった趣味も好きじゃなくなって、無表情で気力がない感じになっていきました」
スーパーに母親ひとりで卵を買いに出かけ、何も買えずに戻ってきたときのことを田中さんは強く覚えている。その際、失意の母親に一瞬だったが、あきれた顔を見せてしまったことを田中さんは今でも激しく後悔している。料理などの複雑な家事は、母親ひとりでは難しくなっていた。
「よく店のレジ袋を小さく折りたたんで、ゴミ袋に再利用したりしますよね。この頃の母は、それを朝から晩まで折っているんです。『そんなに折らなくていいよ』って言っても、ずーっと折り続けてる。父がきれい好きだったので、母なりに意味があったのかなって」