何も起こらないけれど、何か残るものがある話が書きたかった『ママがロックンロールしてたころ』東山彰良 インタビュー_1
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音楽から学んだものを小説の形に置き換えた作品

──『ママがロックンロールしてたころ』、引き込まれて一気読みでした。主人公は赤ん坊の頃に母親に出奔されたペイジ。音信不通だった母は彼が十歳の時、突然会いに来て二日間一緒に過ごしますが、ほどなく母は癌で他界。その後のペイジの日々が描かれていきます。印象深い言葉やモチーフがたくさんありますが、本作の出発点はどこにあったのでしょうか。

 これは担当編集者に「何も起こらない小説を書かせてほしい」と言って書き始めた作品でした。すでに何かが起こってしまった後の物語を書きたかったんです。ペイジにとって、母親に捨てられた出来事は記憶にないほどの昔のことですが、それが起きた後、彼がどうやってその事実に対処していくかを主眼に置いて書いていきました。
 僕は映画でも、何も起こらないけれど面白いものが好きなんですね。たとえばジム・ジャームッシュの映画であったり、若い頃にはまったく理解できなかった小津(おづ)安二郎(やすじろう)の映画であったり。歳をとるにつれてだんだんその良さが分かってきて、自分もそういうものが書けたらいいなと思いました。

──ペイジの名前の由来はジミー・ペイジ。父親がバンドマンで、母親も昔バンドをやっていて。ペイジも幼い頃から父親にギターを習って天才少年ともてはやされる。それもあり、実際のミュージシャンの名前や曲名がたくさん出てきて、それがまた面白いです。

 僕は小説を書くにあたって、音楽から影響を受けることがとても多いんです。今回の小説は音楽から学んだものを小説の形に置き換えてみるという試みがありました。
 僕が若い頃に好きだった音楽は、基本的にこれから何かが起こるとか、世の中はこういう見方もできるぞと提示してくれるものが多かった。簡単に言うと、ヘヴィメタルとか。僕は長い間メタルの世界観で世界を見ていたような気がします。自分は大人になったら髪を伸ばして、ピアスをいっぱいつけて、メタルのような格好をする人間になるんだ、世界はそういうものなんだ、というイメージを持っていた。でも大人になるにつれ世界はそういうものじゃないと分かってくるし、うまくいかないことも起きてくる。すると、うまくいかないことが起こった時にどういう心構えでいたらいいかを歌った歌のほうを聴くようになる。たとえばボブ・ディランの「ライク・ア・ローリング・ストーン」は物事がすべて起こった後で、どういう気持ちなのかと問いかける歌だし、「時代は変る」も、これから何かが起こるワクワク感というよりも、現実のままならなさの中でどうやってそれに耐えていけるかを歌った歌ですよね。だんだんそういう歌を聴くようになったので、物語もそういう書き方でやってみたいなと思いました。だからこれは、長いエピローグのような物語ですね。奇想天外なミステリーのような楽しみ方はできないですけれど、ジャームッシュの映画『パターソン』のような、何も起こらないけれど、読者のなかに何か残るものがある話になっていたらいいなと思っています。

道徳に縛られずに息子の元を去った母親

──忘れられない光景や、心に刻まれる言葉がたくさんあります。十歳の時の母親との旅で、瀕死のカラスに遭遇した際の二人の会話と、のちにペイジがそれを時折振り返るところとか。

 彼にとって母親の記憶は二日分しかありませんが、彼はその二日間をもとにいろいろな解釈を作り上げていく。その後何かが起きて対処する時に、母親との思い出が活きてくるという書き方をしたかったんです。

──ペイジの母親については、どんなイメージをお持ちでしたか。

 許されるべきことではないけれど子供を捨ててしまった。でもそれは彼女なりの選択の結果なんですよ。彼女の人物像はその選択ができる女性にあうイメージを加えていってできた感じがします。彼女の生まれ育った家庭も、なんらかの影響を与えていて、彼女の判断はそういうところからきていると考えられます。
 これはペイジたちの解釈でしかないかもしれないけれど、道徳に縛られて子供のそばに残っていたら、自分が取り返しのつかない打撃を子供に与えてしまう可能性を彼女は分かっていた。自分がそれをやらかす可能性があるからこそ、赤ちゃんを置いて家を出た、という書き方をしたつもりです。子供を捨てなかったら、もっと最悪なことにもなりえたという。

──自分の余命を知って、十歳になったペイジに会いに来る。でも懸命に息子とコミュニケーションをとろうとするのでなく、二人で静かに海を眺めていたりして。

 一度手放したものを自分の都合だけでまた取り返すような女性にはしたくなかったんです。彼女がペイジに会いに来たのには、それ相応の理由がなくてはならない。それこそ、もうこの世を去らなきゃいけないから最後にもう一回だけ息子に会いたいということであれば、彼女も自分を許せるのかなと思いました。それ以外、誕生日やクリスマスに連絡をしてこなかったのは、彼女なりのけじめのつけ方だったと僕は思っています。

──父親や叔父たちは、ペイジの母親はポリアモリーだった、という話をしますね。

 複数の人を同じように愛するポリアモリーというものを知った時は若干衝撃を受けました。どうにか自分なりに理解したくて、いつか書いてみたいと思っていました。ただ、なかなか小説でどう表現すればいいのか分かりませんでした。
 分からないことを分かったふりをして書くのではなく、分からないままになんとか解釈をつける、みたいな書き方しかできませんでした。
 ペイジのお母さんがポリアモリーかもしれないというのは、母親本人が言い出したことではなくて、後から周囲の大人たちがそう解釈しているだけなんです。あくまでも解釈は周りにゆだねられている。僕が思っていることはほとんどペイジに言わせています。

──ちなみに、母親がペイジを捨てたのはポリアモリーが理由というわけではないですよね。

 ないです。作中にキングコブラの母親は子供から離れる習性がある、というくだりがありますが、それも後からペイジが解釈したことです。そうやって解釈することで、ペイジがお母さんにそこまでは傷つけられていないことが表現できるかなと思って。
 母親から捨てられたことや母親の存在そのものは、そんなにたいしたことではないと彼自身は思っている。でも、何かしら傷は受けているんです。小説を書くにあたって、主人公が極端な行動を起こす場合、なんらかの極端な原因が必要となりますが、今回は何も起こらない物語にしたかったので、傷は受けているかもしれないけれども彼をゆがめてしまうほどのものではない、という書き方をしました。