言葉の選び方とセリフのむずかしさ
――おふたりの作品はそれぞれ、登場人物の位置付け、動かし方も大きく違いますよね。『カンザキさん』は主人公と読者が一緒に駆け抜けるように、「僕」の過去を追体験することになる。これに対して『時の家』は、青年のスケッチとともによみがえる家の記憶を、読者は俯瞰的なところから眺めていきます。
3号 主人公の「僕」に関しては、ほかのどのキャラクターよりも個性がありません。彼の存在に読者のみなさん自身を投影してほしいから。彼が一番まともで、ある意味においては普通。そうして強烈な個性を持った人々に、翻弄されていくことになる。「僕」がどうやって誕生したのかを言葉にするのは難しくて、ほかのキャラクターたちとの関係性の中で出来上がっていったとしか……。何かひとつエピソードを入れることで、その当事者である人物がどんな人間なのかは自然と決まってくるから。たとえば、入社式でイスに座り損ねてしまうのはどんな人間か、頻繁に唾を吐くような人物は日常的にどんな言葉を口にするか、とかね。だから最初からどのようなキャラクターなのかを決めつけたりはしてません。人物造形について語るのは、『時の家』はもっと難しいはずですよね。
鳥山 そうですね。でも、何かしらのエピソードがあって、そこから人物のイメージを膨らませていくのは、僕もピンクさんと同じです。家が記憶している、ひとりひとりの登場人物の振る舞いが、いったい何を物語っているのか。一歩ずつ慎重に踏み込んでいくようにして考えていきました。
3号 言葉が言葉を呼び、気がつけば人物像が出来上がっているイメージかな。
鳥山 そういう感覚ですね。ここでひとつお聞きしたいんですが、先日、野間文芸新人賞の受賞者としてテレビ番組の収録をご一緒したときに、ピンクさんはキャラクターを描く際、それを演じる役者さんの顔を思い浮かべてるっておっしゃってたじゃないですか。
3号 言いましたね。
鳥山 その話を聞いたとき、「えっ、どういうこと……?」って思ったんです。小説に登場するキャラクターが実在の人物をモデルにしているというのはよく聞く話だけど、ピンクさんの場合は違う。そこへさらにキャラクターを「演じる」人物が重なってくるわけですよね?
3号 うん、そうですね。
鳥山 そんな書き方をしている小説家って、なかなかいないと思うんです。
3号 どうなんやろ。これまで演劇の仕事を通していろんな役者さんとご一緒してきたんですが、自分の作品と役者さんとの相性みたいなのがわかってきて。で、ピンク地底人の書く戯曲の登場人物っぽい顔、っていうのがあるんですよ。このあたり自分だけの感覚的なもので、ほんと、うまく説明できなくて申し訳ないんですけど(笑)。その人たちの顔を思い浮かべながらこの小説を書きましたね。
鳥山 えっと、『カンザキさん』の登場人物はフィクショナルな存在であり、かつ、その登場人物を役者さんたちが演じているわけですよね、頭の中で。そしてピンクさんは、頭の中で役者たちが演じている様子を小説にしていったということですよね?
3号 そう、なりますかね。
鳥山 すごいですね。ひとつの物語を複数のレイヤーで描いてるというか。その特異な手法が、人物造形自体にもかなり大きく影響してくるんじゃないかと思うんですよね。
3号 確かに、頭の中の役者たちが動いて話しているところをイメージしながら書いているから、具体的に書きやすかったっていうのはあるかも。……いや、なるほど、そうか。『カンザキさん』の登場人物たちはみんな、役を演じてるのかもしれない。言われて初めてそのことに気がつきました。そういう意味では、やっぱり戯曲と同じようなアプローチの書き方をしてますね。こういう小説の書き方をしている人っていないのかな。
鳥山 あまり聞いたことないです、そんな話。でも、そのことを知った上で読み直すと、印象がまたずいぶんと変わってくるんじゃないかという気がします。
――作品のなかで扱われる言葉の種類や、文体についてもお聞きしていいですか。言葉の密度が非常に高い『時の家』に対して、『カンザキさん』はエピソードと登場人物の感情の密度が凄まじいですよね。それぞれどのようにスタイルが固まっていったんでしょうか。
鳥山 一筆書きのように頭から順に書いていく方もいらっしゃいますが、僕のスタイルはかなり構築的ですね。まず作品全体の構造を考えてから、丁寧に組み立てていく。この構造を組む際に重要だと感じているのは、なぜ語られているか、という点です。この理由が明確になれば、やがてこれが作品の背骨になり、扱う言葉の種類のようなものも自ずと決まっていく。今回の『時の家』で言えば、語るのは家とも読めます。家が記憶を掘り起こしながら、多くのことを語る。じゃあ、家が何かを語るときに扱う言葉というのは、いったいどんなものか。するとそれは、この家を建てた藪さんが扱う言葉に準じたものになっていくのかもしれないというところに行き着く。こうして作品を構成する要素に制約をかけていくというか、必然的なものたちで固めていったんです。建築の言葉をそのまま使っているのには、僕が建築士だからということとは別の理由がある。背景がある。
3号 小説を書き始めた当初から、そういう構築的な書き方をしてたんですか?
鳥山 いえ、いくつか作品を経ていくにつれてですかね。執筆経験を重ねる中でどんどん変わっていくものだと思いますし、現にいまも変わり続けてる。『時の家』に関してはこのスタイルがハマったけど、今後も作品ごとにベストな手法を選んでいこうと思ってます。
3号 なるほど。僕は構造うんぬんよりも、まず「カンザキさんと一緒にトラックに乗ったら絶対に降りられない」っていう状態を描こうっていうところからはじめました。これがある意味、本作のひとつの主題です。「僕」はトラックから絶対に降りられないし、読者も顛末を見届けるまで読むのをやめられない、そんな作品にしたいなって。カンザキさんみたいな人とは、対話なんて成立しません。神との対話が実現しないのと同じです。神の考えていることなんて、誰にもわかりませんからね。このあたりは明確に「ヨブ記」を意識しています。扱う言葉に関しては、これがはじめての小説だということもあって、とくに何も考えてなかったかな。出発点が実体験なので、主人公が過去を思い出している体で書いていったら、自然とああいう文体になったというか。
――関西弁のセリフがとても印象的ですよね。
3号 関西弁にしたのは、標準語よりも身体性があると思ったから。関西弁のおかげで、物語により血が通った気がしますね。僕は鳥山さんとは逆で、物語の構造についてはほとんど考えてないかも。念頭に置いてたのは、カンザキさん、ミドリカワさんという対照的な人物を配置して、その間に立つ主人公が右往左往する状況を展開させながら繋いでいこうってことだけです。ここも自分の演劇観を土台にしてますね。演劇は基本的に、物語の中心に立つ人間の葛藤がないとダメだと思ってて。他者との関係性の中で生まれる葛藤があってはじめて、そこで交わされるセリフが繋がっていくから。
――戯曲で書くセリフとはどんな違いがありましたか?
3号 セリフの書き方は同じですね。ただ、戯曲はセリフだけで物語を進めなくちゃいけないけど、小説は状況説明をするための地の文があるから、場面を繋ぐのがずっと楽でした。いや、もちろん、地の文を書くのにはそれ相応の難しさがあるんですけど、楽しかったですよ、新しい扉を開いていく感じで。
鳥山 実は僕、セリフを書くのがすごく苦手なんです。めっちゃ下手やなと自分でも思っていて。
3号 え、意外。
鳥山 演劇には葛藤が必須だとおっしゃいましたが、それってつまり、異なる意見を持つふたりの人物になりきってセリフを書くってことですよね。僕はこれがなかなかできない。対立する人物同士を、どうやって喋らせてるんですか?
3号 『時の家』を読む限り、鳥山さんがセリフを書けないなんてまったく思わないし、実際、登場人物の考え方のズレを示すシーンだってありますよね。ほら、夫婦が部屋の広さの捉え方の違いについて語ってるところ。
――三代目の住まい手である圭さんと脩さん夫妻のやり取りを描いたシーンですね。
3号 十分、書けてるじゃないですか。でもひとつ言えるとしたら、セリフって登場人物に「こういうことを言わせたい」っていう気持ちが先行しすぎると、ペラペラの会話というか、ただの説明になっちゃうんです。登場人物がどんな考えを持っていて、何を好んだり嫌ったりしているのかが明確になれば、自ずと生まれてくるのがセリフなんじゃないかなぁと。
鳥山 なるほど。ありがとうございます。
3号 いや、ごめんなさい。普段から戯曲講座をしたりしているので、ついえらそうなこと言うてしもた(笑)。ごめんなさい。
鳥山 いえいえ、すごく勉強になります。
3号 それにしても僕、つくづく劇作家としての経験値だけで小説を書いてますね(笑)。
鳥山 逆に『カンザキさん』を書きながら、小説と演劇の違いについて考えたりすることってありましたか?
3号 それで言うと、トラックで走ってる場面は、どれも演劇では絶対ムリだなって思って書いてましたね。あと、自問自答っていうのも演劇でやるのは難しいんです。「僕」がミドリカワさんに対して、こんなに好意的に思ってるのに、なんでこっちを見てくれないんだ、みたいに頭の中でぐるぐるやってる感じとか。演劇では難しいけど、じゃあ文章でどうやって躍動的に見せるかってなったときに、演出的な視点を持って書いたっていうのはあるかも。野間文芸新人賞のときに推してくれた講談社の編集者の方から、「これ、太宰治の『駈込み訴え』ですよね」と言われて、本当にそうやなぁと思った。モノローグが連なって畳みかける感じとか、主人公がメンヘラ化していく過程とか、ほんまそっくりやなって。
鳥山 僕は演出という言葉を知らないに等しいので、その視点はないですね。場面を映像的に思い浮かべながら書くこともなくはないけど、でもどちらかというと、言葉をひたすら積み重ねていった結果として何かしらの感覚に到達できるのが、小説を書く醍醐味だと捉えているので。世代の近い方だと、乗代雄介さんの作品みたいに、噛めば噛むほど味がしてくるような。読み進めていくうちに、胸の中にじんわりと形容し難い感情が広がっていくような。これを目指すことが、『時の家』における、ある種の演出的なものなのかもしれません。
















