「記憶」の描き方と「読者」の存在をめぐって
――『時の家』は解体の決まった一軒家を舞台に、この家を訪れたひとりの青年のスケッチによって、かつて住人だった三代の人々の日々が交差するようにして描かれます。家が宿している記憶を語る言葉の組み立てが緻密で、読んでいるうちにその記憶がこちらへと浸透してくるような感覚がありました。
3号 僕、もう何回も読み返しているんですよ。好きなシーンがいくつもあって。たとえば、藪さんという登場人物が、自分が設計した家の取手にまつわる思い出を振り返っているところとか。設計士の藪さんがデザインした取手に対して、彼の所属する設計事務所の長が「ええ取手やな」とひと言だけ漏らすんですよね。これが藪さんにとって、生涯忘れられないほどの嬉しい体験になる。僕には取手のデザインをした経験はないけれど、同じものづくりをする人間として、藪さんの心情はよくわかるなって。
それから冒頭のほうで、青年が水面に飛び込むような気持ちでスケッチブックに一本の線を引くシーンがありますよね。目の前の紙に対してなかなか最初の一筆を入れられずにいたけれど、一本の線を引いたことで彼の手は軽やかに動き出し、次から次へと線が生まれていく。これは執筆っていう営みと同じだなと思った。とにかくまずひとつの言葉を置いてみることで、そこから次々に言葉が溢れ出て、連なり、やがて物語へと発展していく。この感覚もすごくよくわかる。『時の家』は一軒の家をめぐる物語ですが、僕はこれをある種の創作論だと受け取りました。鳥山さんはここに、自身が創作に向き合う態度を書いてはるなって。あと個人的に、この家にまつわるさまざまな人間の記憶がリエゾンしていくのも魅力のひとつです。非常に演劇的だなって。
鳥山 確かに、『時の家』が僕自身の創作論的なものであるのはおっしゃるとおりで、自覚もしています。でも、演劇的だと言われたのは初めてです。僕は演劇というものに疎くて申し訳ないんですが、記憶の描き方とか扱い方に、どこか近い部分があるんですかね。
3号 そもそも演劇って、記憶について語ることが非常に多い芸術なんですよ。たとえば、伝統芸能の能の形式のひとつである「夢幻能」では、死者が登場人物としてやってきて、未練や執着といった、言ってしまえばかつての思い出について語る。以前、納棺師の仕事をやっていた経験とも繋がってくるけど、演劇は、もうここにいない人たちを呼び込む儀式だと僕は捉えていて。『時の家』にはこの演劇と記憶の関係性を感じ取ったんですよね。
鳥山 なるほど、すごく面白いですね。
――『カンザキさん』は主人公の「僕」が、かつての勤め先である配送会社で経験した壮絶な日々が、彼の一人称視点で綴られています。極悪非道なカンザキさん、穏やかで優しいミドリカワさんというふたりの上司の間で心が揺れ、飴と鞭が用意された環境から抜け出せなくなっていく。カンザキさんの言動が想像を絶するほど酷くて、面白さを感じながらもギョッとすることの連続でした。鳥山さんはどう読まれましたか?
鳥山 初読はもちろん、再読してみてさらに面白さを感じましたね。劇中で描かれるエピソードがどれもこれも強烈で、たくさん詰め込まれている。いくら実体験をベースにしているとはいえ、あくまでもフィクションじゃないですか。僕は主人公と同じような環境に身を置いたことがないので、配送業者である彼が目にする景色を見たことがありません。でも、読み手にリアリティを感じさせる強さがあって。カンザキさんの運転するトラックの助手席から同僚が転げ落ちるシーンがありますが、あんなの僕の想像力では書けませんよ。
とくに好きなのは、心優しい上司のミドリカワさんと「僕」がミスタードーナツに行くくだりです。職場での恐ろしいエピソードが畳みかけられるなかで、「僕」が揚げたてのドーナツを口にして、今まで食べてきたのとは比べものにならないほど美味しいと感じている様子が、活き活きと描写されてますよね。あそこだけ異質で、ずっと心に残っています。配送業の現場のリアリティとはまた違う、特別なリアリティがある。その光景をすぐそばからのぞき込んでいる気分になってくるというか。泥臭い物語が展開していくなかで、なぜあのシーンを描いたのかをお聞きしたいと思ってました。
3号 嬉しいですね。戯曲を書くときもそうなんですが、僕はけっこう食事のシーンを描くんです。味や香りは、受け手の味覚や嗅覚に直に訴えられるから。ブルーカラーの仕事をしていた頃、飲食店に行くたびに自分の汗の匂いを気にしてたんですけど、そういう経験もにじみ出てる気はする。けど、書いてるうちにたまたまミスドにたどり着いただけで、完全に創作です。そしてこのシーンが、物語全体のなかでひとつの抜きどころになってます。
鳥山 そのバランス感覚、絶妙ですよね。『カンザキさん』はとにかく強烈なエピソードが並んでいるから、読者としては下品な方向に突っ走っていくのかと思うんですよね。でも、ほのぼのとした笑いが適宜、ちりばめられていて、そうはならないっていう。
3号 そのあたりのバランスはほとんど感覚的なものなんですけど。でも、笑いの要素はめちゃくちゃ大事だなって思ってて。しんどいシーンは誰でも書けると思うし、しんどいだけで終わっちゃうのは嫌なんですよね。しんどいけど笑えるっていう読み味で、読者を最後まで引っ張っていけたらなと思って。
――シリアスとユーモアのバランスに3号さんの作家性が出ていると。
3号 このあたりもやっぱり演劇をやっている経験が大きいですね。演劇はお客さんの反応がダイレクトで、どう受け取られているかがすぐわかるので。だからこの作品は、読んでくれる人のことを考えながら書きましたね。
鳥山 なるほど、そうか……。僕は真逆で、読者のことはそれほど気にしないで書き始めるタイプです。もちろん、編集者さんとのやり取りを経て、読み手にどう伝わるのか、そしてどう伝えるべきかをブラッシュアップの過程では考えます。でも書き始めの時点では一切、読者の反応は想定していません。大切にしているのは、とにかく作品ごとの世界観を守ること。思い描く世界の質感をどうクリアに表現するか、そのことばかり考えています。結果、「こんなん読まれへんで」みたいな感想をもらうこともあるんですけどね。『時の家』に関しては、「冒頭の数ページが読者を置き去りにする」とよく言われます。
3号 むしろ、冒頭が一番いいんですけどね(笑)。
鳥山 ほんまですか? あそこは賛否両論あるんですよ。家全体や室内の細部にまつわる描写を通して世界観の提示が延々と続くから、「あの数ページを読んで買おうと思う人なんかおらんのちゃうか」とまで言う人もいるくらいで(笑)。
3号 けど、鳥山さんが読み手をあんまり意識してないっていうのはちょっと意外かも。新人賞(三田文学新人賞)ご出身ですよね。デビューする前って、どう読まれるかを意識してませんでしたか?
鳥山 それが、多く人に読まれるというのはあまり意識してなくて。まずは選考委員にどう読んでもらうかが重要で、世に出て読まれるのは、そのずっと先の話。受賞しなければ世間の人々に読んでもらうことはできない。そう考えていましたから。
3号 なるほどなぁ。そのあたりも僕とは対照的かもしれないですね。ちなみに、私小説的なものを書かれたことはないんですか?
鳥山 小説を書きはじめたばかりの頃はそういったものも試していました。でも書いていくうちに、自分には作品の核になり得るような「私」なんて存在しない、そういう感覚を持つようになったんです。三田文学新人賞をいただいた「あるもの」という短編は一人称「私」の物語ではあったけど、主人公は自分の母親世代の年齢の人物でした。なので、私小説的なものからは遠かったですね。
















