路上から始まった19への道
当初、路上ミュージシャンだったけんじと岩瀬敬吾(以下、敬吾)。「19」でデビューするまでどのような経緯があったのだろうか。けんじが最初に音楽業界と接点を持ったのは、まだ15歳のときだった。
「親父が僕の歌を録ったテープを勝手にビクターや島村楽器に送ってて。それがたまたまビクターのスカウトの方の耳に届いて、わざわざ広島まで来てくれたんです。15歳でビクターに拾われて、もともとはソロデビューをする予定だったんですよ。実は、育成アーティストとして19歳までビクターに在籍していました」
相方・敬吾との出会いについて聞くと、意外な真実があった。
「最初は敬吾くんが僕のお客さんだったんですよ。僕がまだ広島でライブしているときに何度か来てくれて、一緒に弾き語りしたりしてるうちに仲良くなったんです」
ふたりは年齢が近かったこともあり、すぐに打ち解けた。やがて相方の敬吾は、高田馬場の音楽専門学校ESP学園に通い始める。転機がやってきたのは、上京して数年経ち始めてからのこと。彼から「話がある」と、呼びだされた。
「”俺、広島帰る”って敬吾くんから言われて。専門学校の先生に『お前は才能ない』って言われたみたいです。でも、ここであきらめるのはもったいないなと思って、じゃあ俺と一緒にやろうよって誘いました。新宿駅の東南口でギターを持って座り込んで話したのを覚えています」
それこそが19の前身ユニット「少年フレンド」だ。それから数か月後、下北沢のライブハウスでイラストレーターの326と出会い、3人は19を結成する。
意気投合した3人はデビューシングル『あの青をこえて』をリリースしたが、発売当初オリコンチャートは圏外。全くといっていいほど売れなかったが、3人の人生を大きく変える転機が訪れる。2ndシングル『あの紙ヒコーキ くもり空わって』の誕生だ。楽曲誕生の瞬間について話を聞くと、意外な答えが返ってきた。
「最初、歌詞を見たときは“変な歌詞だな”って思いました(笑)。当て字も多いし、『風の谷のナウシカ』が乗るメーヴェが出てくるし。正直売れるなんてまったく思ってなかったです。ただ(作詞を担当した)326くんは僕らより先に詩集を出したりしてブレイクしていたので信頼はありました。326くんの胸を借りるつもりで歌ってましたね」

















