比喩は陳腐化しがち! もっと意外に、自由に
比喩。辞書を引くと、比喩は「物事を直接に描写・叙述・形容などしないで、たとえを用いて理解を容易にし、表現に味わいを加える修辞法」とあります。おそらく皆さんも日常生活の会話や文章で、いつの間にか比喩表現を使っているはずです。
「あそこの上司は鬼だから」
「ビジネスは戦争だ!
「あの人の業務管理って神だよね」
どうでしょう、1日1回くらいは聞くのではないでしょうか。「鬼」=「死ぬほど厳しい」、「戦争=生きるか死ぬかの戦い」、「神=信じられないほどわかりやすく、整理されている」ということですから、比喩の便利さは、「皆がわかる表現を使えば、文を短くでき、インパクトを作れる」という点にあります。
この「皆がわかる」というのが、まあ曲者。
そこに意識が強く向きすぎると、比喩はどんどん定番化していき、手垢のついた表現になります。
「太陽のように明るい」「絹のように滑らか」「歩く百科事典」。すべて比喩ですが、どう感じるでしょう? 「まあ言うよね」という印象で、もはや特に心に残らないのではないでしょうか。「明るい女性」を「太陽のように明るい女性」と表現したところで、現代では「別に……」という陳腐な印象を与えてしまうのです。
「豆腐メンタル」「親ガチャ」「沼落ち」…イマドキの素晴らしい比喩表現
では、イマドキの比喩表現「豆腐メンタル」はどうでしょう。「親ガチャ」「沼落ち」。これだって比喩のひとつ。私は、近年唐突に登場したこれらの比喩表現が好きです。「豆腐=もろい」という「共有理解」を巧みに取り入れながら、新鮮なたとえを生み出しているわけで、これぞ「比喩じゃん」と感じます。このあたりがうまい作家と言えば、村上春樹さんが挙げられます。
「寝不足のおかげで顔が安物のチーズケーキみたいにむくんでいた」(『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』より)
「ベッドに戻ったときには彼女の体は缶詰の鮭みたいにすっかり冷え切っていた」(『風の歌を聴け』より)。
いかがでしょう? 村上春樹さんほどセクシーではありませんが、「豆腐メンタル」も老若男女で同じイメージが持てる素晴らしい比喩じゃありませんか。プルプルで、脆くて、危うい。
言い古された比喩表現では「ガラスのハート」がありますが、現代のガラスは堅牢です。たとえばAGCの「倍強度ガラス」というものは、「同じ厚さのフロート板ガラスの約2倍の耐風圧強度、熱割れ強度を持つ、高層ビルの外装に適したガラス」だそうで、こんな商品がある時代に「俺、ガラスのハートだから」と言ったら、逆に「そりゃあものすごい強度だね! もっと働けよ、コラ」となるのです。
比喩は、普遍的だが、意外かつ自由なほうがよい。以前ダウンタウンの松本人志さんがとあるテレビ番組で、発言を譲り合うコンビ芸人に対し、「最後の餃子か!」と言い放ちました。新鮮にして、皆がよくわかる。これがよい比喩の本質なのです。