安全な避妊ピルを求めて

ただし、発売当初の避妊ピルには現在の数倍の高用量ホルモンが含まれており、血栓症や吐き気などの深刻な副作用を引き起こすこともあった。こうした健康被害に対し、フェミニストたちは1970年前後から、女性に十分な情報を与えず一方的に処方を行う医師たちの姿勢に強く異議を唱えるようになった。

当時の多くのフェミニストたちは、医療専門家が父権主義的で、患者への十分な情報提供を行わないという認識を共有していた。

性やリプロを自己管理するには正しい情報が不可欠だと痛感した彼女らは、自分たちが必要としている情報を他の女性に届ける活動に乗り出した。1968年にカナダのマギル大学の学生たちの手で『避妊ハンドブック(Birth Control Handbook)』が発行され、1970年には「ボストン女性健康本集団」編著の『私たちの身体、私たち自身(Our Bodies, Ourselves)』のもとになるパンフレットが作成されて、ともに女性の健康運動のバイブルになった。

「ピル」によって女性は医師や弁護士を目指すことができるように…1970年代アメリカでピルが起こした奇跡的変化_2

こうした情報共有の動きは現実社会に変化をもたらした。知識を得た女性たちが国や製薬会社に抗議活動を繰り広げた結果、製薬会社は避妊ピルのホルモン含有量を引き下げ、消費者向けの情報を添付するようになったのである。

1970年代には、避妊ピル以外にも避妊手段の開発が進んだ一方で、次々と問題も明るみに出た。IUD(子宮内避妊具)はすでに1950年代から使われていたが、このうち、避妊ピルへの不満を背景にアメリカで人気が急上昇した「ダルコン・シールド」は、少なくとも十数人の死者を出した他、細菌感染による敗血症性中期流産も多数報告された。

メーカーは相次ぐ訴訟を受けて1974年にアメリカから製品を撤去し、後に破産した。一方、同時期の南半球では、「デポプロベラ」と呼ばれるホルモン剤の避妊注射の乱用が問題になった。