過疎地域は悲惨か?

都市部の住民は「過疎地域には何もない」と言う。ところが、過疎地域の住民は何もないのが当たり前で育っている。何もないのが当たり前なので、それが普通だ。

都市部の住民から「あれがないです」と言われても、「それがどうした」となる。そのようなモノは最初からないし、これからもなくてよい。放っておいてくれと。

むしろ「いろいろなモノがあるのは面倒だ」と言う。「公園が欲しい」と言う住民もいる。公園の活用方法を尋ねると「たぶん誰かが使うと思う」とあいまいな返答になる。過疎地域には使われずに放置されている公園が多い。

森林に囲まれた過疎地域でどうして公園がつくられるのか不思議だった。その理由が、充分な豊かさの中で暮らしているからだとわかったのは、田舎の研究を本格的に始めてからだ。

都市部の住民はその現実を受け止めるのが難しい。学術論文や政策論文の多くが、過疎地域は「悲惨で困っている」「都市部と比べて低位にある」といった論調で書かれている。

「悲鳴をあげている」「崩壊している」といった過激な文章もある。「生きてはいけない現実」「切り捨てられる地域」といった文章もよく見かける。

それらの論文は「悲惨」を根拠として過疎地域への財政支援を主張している。

財政支援については私も強く同意する。都市部は過疎地域を支える義務がある。その結論は同じであっても、「かわいそうだから助ける」「寂しそうだから救う」というロジックがことのほか引っかかる。

「笑顔の絶えない弱者に寄り添う」といった立ち位置がどうにも釈然としない。「日本の故郷を救う」という情緒的な自己満足がなんとも腑に落ちない。かわいそうとか、寂しそうとかいった言葉は、相手の心情に寄り添っているかのように見せて、じつは上から目線の傲慢さであったりする。

欧米では田舎に対して「悲惨」という捉え方をしない。過疎化によって地域のつながりが弱くなるという考え方もしない。

むしろ、田舎暮らしは精神的な豊かさや憧れの対象だ。人間のあるべき本来の姿として「田舎暮らし」を捉えている。地域の衰退については、補助金の申請方法や使い道が補完的に論じられる程度だ。

「過疎地域で年収300万円を超える求人はトラックの運転手だけ」でも幸福度は都市部より高い? 田舎をめぐるネガティブな言説のウソとホント_1
すべての画像を見る

日本はずいぶん事情が違う。村社会的な相互扶助の精神を重視し、過疎化によって地域のつながりが弱くなると考える。過疎地域は「悲惨」という意識が極めて強く、危機や崩壊といった主張になりがちだ。

その「悲惨」といった論調に対して過疎地域の住民は否定的である。「住んでもいないのによくそういうことが言えますね」「たいして知らないのにふざけた人たちです」と言う。

そこで、「過疎地域は悲惨という扱いだから税金が落ちる。違うとなると税金が落ちなくなる」と伝えると、「それなら悲惨でも致し方ない」と言う。「怒らなくてもよいのですか」と聞き返すと、「税金が入らないと困る」とほぼ全員が言う。

その背景には「税金依存が最も効率的」という地域事情がある。過疎地域の先人たちは「悲惨」の意識を上手く利用して政府から支援策を引き出してきた。

「悲惨」を根拠として税金が落ちる構造は先人たちがつくり上げた知恵と工夫である。要するに、過疎地域の事情と、首都圏の都合が複雑に絡み合った結果、「悲惨」という論調になっている。