羽田の海苔漁師たちが語る最後の決断「貨物船から廃油が垂れ流され、多摩川は真っ黒になっていた」…戦後復興の空港拡張で消えた300年の歴史
戦後、目覚ましい経済発展を遂げた日本。そのなかでも、東京オリンピックは戦後復興をアピールする絶好の機会だった。急ピッチで勧められた交通インフラ整備の裏で、羽田の漁師たちが巻き込まれた悲劇があった。
『48時間以内に退去せよ 日本が戦争に負け、あの日、羽田で何が起きたのか』(旬報社)から一部抜粋、再構成してお届けする。※本書は「PEACE BOOKシリーズ」として、若い人にも読んでもらえるようふりがなが付いているため、本記事にもふりがながついています。
『48時間以内に退去せよ 日本が戦争に負け、あの日、羽田で何が起きたのか』#2
世界第3位、アジアで最も混雑する国際空港に
こうして羽田の漁師たちは漁を辞め、それぞれ町工場や商店を起業したり、海苔干し場だった土地などを利用してアパートを建てたりし、町の風景も変わっていきました。
石井五六さんは仲間と共同で転業し、当時高速道路建設などの需要で先端産業だった、生コンクリート工場の経営に乗り出します。
そんな高度経済成長期、羽田空港の規模も拡大されていきます。
航空機のジェット化が急速に進展する中、滑走路をはじめ空港施設の規模拡充がおこなわれ、1964年から71年にかけて滑走路が三本に増えます。
写真はイメージです(PhotoAC)
続いて78年に新東京国際空港(成田空港)が開港、中華航空を除く国際線が成田に移転します。羽田空港は国内線空港となったかに見えましたが、その後、航空機の大型化、高速・大量輸送時代が到来し、成田と羽田の処理能力が限界に達していきました。
また、騒音や排気ガスなどの環境問題に対応する必要にも迫られ、羽田の空港施設は大規模に沖合へ伸ばすことになり、84年から2007年まで「東京国際空港沖合展開事業」がおこなわれました。
その後、四本目の滑走路となるD滑走路ができて、国際線地区が2010年から使われるようになりました。
羽田空港D滑走路(PhotoAC)
つまり羽田空港は、1931年の開港時は滑走路が一本、面積が53ヘクタールの小ささだったのに対し、現在は沖合の埋め立てが重ねられた結果、滑走路四本、1522ヘクタールまで拡大されたのです。面積は約30倍になり、その広さは東京都の渋谷区とほぼ同じという、何とも広大な国際空港となっています。
その結果、今では羽田はアジアで最も混雑する空港になりました。
イギリスの航空情報会社OAGが発表した、2024年の国内線・国際線を合わせた「世界の利用客の多い空港ランキング」によると、羽田は1位のアトランタ(米国)、2位のドバイ(UAE)に次ぐ第3位でした。4位のロンドン・ヒースロー空港(英国)よりも多く、年間に約5500万席の座席を提供する、世界的にも利用者が大変多い空港になっています。
アトランタ空港(写真/Shutterstock)
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こうして滑走路や施設が沖合に展開されたことで、1945年まで約3000人が住んでいた旧羽田三町のエリア、海老取川からすぐ東側の土地は空港跡地となりました。現在、官民連携の「羽田空港跡地まちづくり」として、公共施設や公園への整備が進められています。
文/中島早苗 サムネイル/Shuttetstock
『48時間以内に退去せよ 日本が戦争に負け、あの日、羽田で何が起きたのか』(旬報社)
中島早苗 (著)
2025/9/2
1,870円(税込)
160ページ
ISBN: 978-4845121113
その翼の下には3000人の暮らしがあった。羽田の悲劇を忘れない。
敗戦直後の1945年9月、東京・羽田の住民に対してGHQ(連合国軍)から突然の命令が下る。
「48時間以内に退去せよ」。これにより先祖代々暮らしてきた故郷を人々は一瞬で失うこととなった。
かつては江戸前の漁師町として、そして現在は空の玄関口として発展を続ける羽田。
しかし、そこに強制退去の悲劇があったことはほとんど知られていない。
現地を歩き、たんねんに史実を掘り起こし、戦争のもたらす悲惨さと理不尽さを問うノンフィクション。
本文ルビ付き。 昔の写真等、画像を多数掲載。土地の成り立ちから漁村としての姿など、 歴史の変遷を追った本書は、羽田ガイドブックとしても興味深く読める。