世界第3位、アジアで最も混雑する国際空港に

 

 

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こうして羽田の漁師たちは漁を辞め、それぞれ町工場や商店を起業したり、海苔(のり)()し場だった土地などを利用してアパートを建てたりし、町の風景も変わっていきました。

石井(いしい)五六(ごろく)さんは仲間と共同で転業し、当時高速道路建設などの需要(じゅよう)先端(せんたん)産業だった、生コンクリート工場の経営に乗り出します。

そんな高度経済(けいざい)成長期、羽田空港の規模(きぼ)拡大(かくだい)されていきます。

航空機のジェット化が急速に進展(しんてん)する中、滑走(かっそう)路をはじめ空港施設(しせつ)規模(きぼ)拡充(かくじゅう)がおこなわれ、1964年から71年にかけて滑走(かっそう)路が三本に増えます。

写真はイメージです(PhotoAC)
写真はイメージです(PhotoAC)

続いて78年に新東京国際空港(成田空港)が開港、中華(ちゅうか)航空を(のぞ)く国際線が成田に移転します。羽田空港は国内線空港となったかに見えましたが、その後、航空機の大型化、高速・大量輸送時代が到来(とうらい)し、成田と羽田の処理(しょり)能力が限界に達していきました。

また、騒音(そうおん)排気(はいき)ガスなどの環境(かんきょう)問題に対応する必要にも(せま)られ、羽田の空港施設(しせつ)は大規模(きぼ)に沖合へ()ばすことになり、84年から2007年まで「東京国際空港沖合展開(てんかい)事業」がおこなわれました。

その後、四本目の滑走(かっそう)路となるD滑走(かっそう)路ができて、国際線地区が2010年から使われるようになりました。

羽田空港D滑走路(PhotoAC)
羽田空港D滑走路(PhotoAC)

つまり羽田空港は、1931年の開港時は滑走(かっそう)路が一本、面積が53ヘクタールの小ささだったのに対し、現在は沖合の()め立てが重ねられた結果、滑走(かっそう)路四本、1522ヘクタールまで拡大(かくだい)されたのです。面積は約30倍になり、その広さは東京都の渋谷(しぶや)区とほぼ同じという、何とも広大な国際空港となっています。

その結果、今では羽田はアジアで最も混雑する空港になりました。

イギリスの航空情報会社OAGが発表した、2024年の国内線・国際線を合わせた「世界の利用客の多い空港ランキング」によると、羽田は1位のアトランタ(米国)、2位のドバイ(UAE)に次ぐ第3位でした。4位のロンドン・ヒースロー空港(英国)よりも多く、年間に約5500万席の座席(ざせき)提供(ていきょう)する、世界的にも利用者が大変多い空港になっています。

アトランタ空港(写真/Shutterstock)
アトランタ空港(写真/Shutterstock)
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こうして滑走(かっそう)路や施設(しせつ)が沖合に展開(てんかい)されたことで、1945年まで約3000人が住んでいた旧羽田三町のエリア、海老取(えびとり)川からすぐ東側の土地は空港跡地(あとち)となりました。現在、官民連携(れんけい)の「羽田空港跡地(あとち)まちづくり」として、公共施設や公園への整備が進められています。

文/中島早苗 サムネイル/Shuttetstock

『48時間以内に退去せよ 日本が戦争に負け、あの日、羽田で何が起きたのか』(旬報社)
中島早苗 (著)
『48時間以内に退去せよ 日本が戦争に負け、あの日、羽田で何が起きたのか』(旬報社)
2025/9/2
1,870円(税込)
160ページ
ISBN: 978-4845121113

その翼の下には3000人の暮らしがあった。羽田の悲劇を忘れない。

敗戦直後の1945年9月、東京・羽田の住民に対してGHQ(連合国軍)から突然の命令が下る。
「48時間以内に退去せよ」。これにより先祖代々暮らしてきた故郷を人々は一瞬で失うこととなった。
かつては江戸前の漁師町として、そして現在は空の玄関口として発展を続ける羽田。
しかし、そこに強制退去の悲劇があったことはほとんど知られていない。
現地を歩き、たんねんに史実を掘り起こし、戦争のもたらす悲惨さと理不尽さを問うノンフィクション。
本文ルビ付き。 昔の写真等、画像を多数掲載。土地の成り立ちから漁村としての姿など、 歴史の変遷を追った本書は、羽田ガイドブックとしても興味深く読める。

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