突然の強制退去の悲劇

当時の新聞は飛行場引き(わた)しについて、次のように報じました。

羽田飛行場を要求
マックアーサー司令部では羽田飛行場を連合国の日本駐屯(ちゅうとん)地に引き(わた)すやう十二日()が当局に申入れた。同時に滑走(かっそう)拡張(かくちょう)のため海岸線埋立(うめたて)の設備を提供(ていきょう)するやう要求して来たが空港再建のためには二箇月(かげつ)乃至(ないし)箇月(かげつ)を要するものと見てゐる。なほ飛行場附近(ふきん)の一部住民に対して立退(たちの)きが命ぜられることになった
『朝日新聞』一九四五年九月一三日付

突然(とつぜん)の強制退去(たいきょ)悲劇(ひげき)は、飛行場に勤務(きんむ)していた人たちだけでなく、羽田の住民にも(おとず)れます。

先の新聞記事から一週間が経った9月20日。

連合国軍(米軍)は、海老取(えびとり)川以東(現在の空港の場所)に居住している全住民に、「明日すぐに立ち退()け」という緊急(きんきゅう)命令を出します。

海老取川(PhotoAC)
海老取川(PhotoAC)
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新聞報道の末尾(まつび)、「なほ飛行場附近(ふきん)の一部住民に対して立退(たちの)きが命ぜられることになった」というたった一行の内容が、実行に移されたのです。

当時の羽田の一般(いっぱん)住民は新聞を読む余裕(よゆう)はなく、ほとんどの人は9月13日の報道も、米軍の緊急(きんきゅう)命令も、最初は知らなかったはずです。

現在の空港がある場所に住んでいた人々が土地を追われることを知ったのは、地域(ちいき)警察(けいさつ)官からの口頭での伝達によってでした。

9月20日。

「たいへんだ、駐在(ちゅうざい)所のおまわりさんが、明日12時間以内に町を立ち退()けって言ってるぞ」

羽田で育ち、今も()らす米本治男さん(87)がその強制退去(たいきょ)命令を聞いたのは、富山県の学童疎開(そかい)から羽田の家へ帰って来た翌日(よくじつ)のことでした。

治男さんは当時、羽田第三小学校(戦時中の名前は東羽田国民学校)の三年生。多摩(たま)川の最下流の海老取(えびとり)川から東側、現在は羽田空港になっている島状の地形内にあった「羽田鈴木(すずき)町」に住んでいました。

同じ場所には鈴木(すずき)町の他に「羽田穴守(あなもり)町」「羽田江戸見(えどみ)町」の三町がありました。

進駐(しんちゅう軍は羽田飛行場を拡張(かくちょう)し、使用するため、これら三町の1320世帯、計2894人全員に、立ち退()きを命じたのです。

しかし、いくらなんでも12時間以内に、生活の持ち物もろとも全員が立ち退()くなど、できるはずもありません。町の代表が必死に(うった)え、警察(けいさつ)や区役所を通して進駐(しんちゅう)軍と交渉(こうしょう)し、9月21日から48時間以内に立ち退()き、ということになりました。

羽田空港と東京湾岸(PhotoAC)
羽田空港と東京湾岸(PhotoAC)

それでも、たった2日間。江戸(えど)時代に開拓(かいたく)され、何世代にもわたって家族、親族と住み、漁業や海苔(のり)養殖(ようしょく)などの生業を続けてきたこの羽田の土地から、たった2日のうちに全員出て行けというのです。

しかも進駐(しんちゅう)軍や日本政府が、代わりに住む土地や家を確保、提供(ていきょう)してくれるわけもありません。戦勝国により、かけがえのない自分たちの生活の場所が、あっけなく(うば)われたのです。

3000人近くの人々がどれだけ(いか)り、当惑(とうわく)し、混乱(こんらん)したか、想像に(かた)くありません。

しかし、抗議(こうぎ)をして()みとどまる人はいませんでした。

今と(ちが)って基本的人権(じんけん)など保障(ほしょう)されていない時代、しかも、無条件降伏(こうふく)した敗戦国です。どんなに理不尽(ふじん)で、悲しくて、(くや)しくても命令に(したが)う以外ありませんでした。

それ以上に、人々は(あわ)てていました。近くで小銃(しょうじゅう)を提げた進駐(しんちゅう)軍の米兵が、早く出て行けとばかりに、パトロールしています。米兵の中には足元の地面を「パンッ」と()っておどかす者もいて、感情を()みしめている余裕(よゆう)など、(だれ)にもありませんでした。