300年続いた羽田の漁業との別れ
羽田で代々海苔養殖を手がけてきた石井五六さんの家では、五六さんが七代目として家業を継いでいました。六代目石井幾右衛門として家業を継いだ父の一六さんは、海苔専門の共同組合である「都南羽田魚業協同組合」をつくり、初代の組合長でもありました。
1959(昭和34)年、東京都内湾漁業対策審議会が設置され、以降、東京都と漁業者の交渉が始まることになります。
その頃、五六さんは組合の理事で、30代でした。補償交渉の委員も務めていた五六さんは、東京都との交渉の前面に立ち、話し合った内容を羽田に持ち帰って組合員の漁師たちに説明する役割を担いました。
漁業権を放棄するということは、これまで漁師として生きてきた人たちにとって、職と漁場、船などの道具のすべてを手放し、転業することを意味します。
当然、多くの漁師たちは抵抗し、特に年配の人ほど転業が難しいため、反対が大きかったと、五六さんは当時を振り返ります。
「難色を示していたのは主に40代、50代の漁師たちで、説得するのに半年かかったね。でも私は、今やこんなに汚染されてしまった海で海苔の養殖や漁を続けるのは、もう無理だと思った。
その頃は沖合を通る貨物船から廃油が垂れ流され、多摩川は真っ黒になっていた。漁業を続けたところで、海に垣根はできないから、その廃油が海苔に付着してしまう。それならいっそ、全面的に漁業権を放棄して、転業したほうがいい。そのために、これまでの収益に見合う補償をしてもらえるように、勉強してよりよい交渉をしよう。そう思いましたね」
都の補償交渉は2年に及んだと、五六さんは話してくれました。
「海苔養殖も魚を獲る漁業にも、豊作と不作があります。不作の年は収入も減る。資本を持って海苔養殖ができていた人たちはまだ良かったけれど、魚や貝を獲る零細の漁師の中には船も持っていない、日雇いの人もいてね。そういう漁師は蓄えもなく、時化の日が何日も続くと、明日の飯にも困って質屋通いをしている人もいた。いわば当時の羽田は、貧民窟(貧しい人たちが暮らす所)みたいな漁村という一面もあったんだね。
漁業権放棄で海苔も漁業もできなくなるけれど、これを契機に他産業に転換することで、この貧しい漁村が甦るんじゃないか。羽田はきっと、経済的に今よりよくなる。そう考えて一生懸命勉強して、2年間の交渉に臨みましたね」
最終的に組合員も納得してくれて、補償交渉がまとまりました。1962年、300年続いた羽田の漁業は終わりを告げ、漁村としての姿を消すことになりました。